都市伝説・考察・陰謀・不思議・オカルト

最も有名な世界の廃墟8選

余っている土地があれば、それを巡って国が、民族が、そして個人が争うのが常ですが、世界には不思議なことに全く人が寄り付かない広大な土地や豪華な建造物も存在します。

市の街、廃墟、そのようなものがどうして存在するのか、世界に存在する廃墟と、その歴史を紹介していきます。

①ウィトヌーム /  オーストラリア

ウィトヌームは西オーストラリア州のパースから車で13時間程度離れたところに位置する地区で、2007年に「公式には存在しない場所」として街ごと地図から抹消されました。

引用元:https://www.abc.net.au/

1966年に鉱山が閉鎖されるまで、ウィトヌームの街には約2万人もの人が住んでいました。しかし、現在ではパース州政府は何人もウィトヌームに近づかないように激しい警告を発し、州政府は街ごと閉鎖、存在する建物や構造物は全て破壊、関連するインフラも全て撤去することを発表。街へ至る道も撤去して、人が存在していた形跡を全て消す措置を取ることを決定しています。

元々辺境の地であったウィトヌームでは、1938年からアスベストの採掘が始まるようになりました。そして戦時中に需要が急激に高まったこともあり、1947年には企業城下町としてウィトヌームの街がつくられたのです。

引用元:http://cinematreasures.org/

オーストラリアでは第二次世界大戦後「ファイブロックジャック」という、アスベストの壁でできたキットハウスが流行しました。その煽りもあり、1950年代にはウィトヌームは規模の大きな街へと急成長を遂げたのです。

しかし同じ頃、南アフリカにもクロシドライトやアスベストを採掘する巨大鉱山が現われ、これらとの競合に勝てずに1966年に閉山することになりました。

そしてその後、1970年に入ってウィトヌームで働いていた人のや居住者はもちろんのこと、一時的に滞在した人の中にも中皮腫をはじめアスベストに関わる病気で死亡していた人が、数多く存在することが判明したのです。

死者の数は数百人に及び、ウィトヌームの街ではオーストラリア史上最悪の産業被害が起きていたことが分かり、西オーストラリア州は対応を迫られました。

環境の浄化をすれば引き続き住むことはできたものの、西オーストラリア州政府はコスト面から浄化よりも街の放棄を選び、街ごと除去することを選んだと言います。

1970年代には危険なことが分かっていたものの、2000年に入るまでウィトヌームの街には人が住み続けていました。街の大部分は早い時期に撤去されたものの、電気などのインフラが生きていたために生活することができたのです。

さらにウィトヌームの街には好奇心から世界中から観光客が訪れるようになり、街には土産物屋までできたうえ「ウィトヌームから生還」という車用のステッカーが販売されていたと言います。

しかし州政府が2006年に送電網を撤去したことで、住民は激減。最後まで5人の居住者が残りましたが、州政府は彼らも移住させ、現在では誰も住まないうち捨てられた土地となっています。

 

②ヴァロシャ / 北キプロス・トルコ共和国

ヴァロシャは地中海に浮かぶキプロス島内の、ファマグスタという都市に位置する巨大リゾートです。ヴァロシャが設立されたのは1960年、キプロス独立の年で、トルコ軍による占領が行われた1974年に廃止されています。


引用元:https://www.turkishminute.com/

もともとファマグスタは、トルコ系住民とギリシャ系住民で棲み分けを行っていた土地でした。これは、1878年のベルリン会議の結果、イギリスがキプロスの施政権を得た際に、自らに不満が向かないように民族を別々の地区に住まわせることで対立意識を煽り、問題が起きた時に調停役を演じることで信頼感を獲得する目的で施策されたものです。

そして時代が下り、1960年にキプロスが独立するとギリシャ系住民の居住区であったヴァロシャは高級リゾートとなり、ビーチを囲んでホテルが建ち並び、世界で最も人気のあるリゾートの1つに成長しました。

当時のヴァロシャのリゾートでは、エリザベス・テイラーやブリジット・バルドーなど銀幕スターたちもバカンスを楽しんだと言います。


引用元:https://in-cyprus.com/

しかし現在のヴァロシャは鉄条網が張り巡らされており、立ち入ることを固く禁じられた廃墟となっています。

その原因となったのが1974年に勃発したギリシャ系住民とトルコ系住民の対立を発端としたクーデターで、トルコ系住民を保護する目的でトルコ軍がキプロスに上陸。

これを見てヴァロシャにいた2万6千人ほどのギリシャ系住民はキプロスから逃げ出し、リゾートの建造物やビーチを含めてこの土地はトルコ軍の占領下に置かれたのです。


引用元:https://www.turkishminute.com/

さらにその後、キプロス北部では「キプロストルコ人連邦国家」が樹立され、1983年にはヴァロシャを含めた北キプロスは「北キプロス・トルコ共和国」として独立を宣言。国際的にはキプロス島はキプロスの領土なのですが、事実上はその半分を北キプロス・トルコ共和国が支配することとなったのです。

ヴァロシャのリゾートを運営していたギリシャ系住民が戻ってこないようにと、北キプロス・トルコ共和国はリゾートを撤去することも自ら運営することもせずに放置しています。そのため、ファマグスタ考古学博物館にあった収蔵品などもどうなっているのか分からず、国際社会からはヴァロシャの扱いについて北キプロス・トルコ共和国へ様々な要望が寄せられています。

ヴァロシャの行政を国連の管轄に移してギリシャ系住民の帰還を許可し、港を双方の民族に開放するという案も提出されましたが、北キプロス・トルコ共和国がこれを拒んでいるために、この巨大リゾートが解放される目途はたっていません。

 

③ベーリッツ・サナトリウム / ドイツ

ドイツのブランデンブルク州、ベルリンから車で45分程離れた場所に位置するベーリッツという小さな町。この町には100年以上前の1902年から30年間、肺病・結核の巨大療養施設であるベーリッツ・サナトリウムが存在していました。

引用元:http://www.hiddensecretstours.eu/

ベーリッツ・サナトリウムは2度の世界大戦では野戦病院としても使用され、1916年には怪我の療養でヒトラーが入院したことがあります。そして戦後にはソ連の軍事病院として活用されたのですが、施設が近代化されることなどもなく1994年まで運営され、そのまま廃止に至っています。

200ヘクタールもある敷地に存在する施設建造物の多くは、取り壊されることも改築されることもなく捨て置かれているのです。


引用元:http://www.awayplan.com/

現在では外科手術病棟など一部の建造物以外は立ち入り禁止となっていますが、外装自体は放置されていてもそれほど老朽化しておらず、建造物としてはしっかりとした強度を持っていることがうかがえます。

このように建物として価値があることが、長らくベーリッツ・サナトリウムが取り壊されずに放置されていたことの一因でしたが、敷地内の建物のいくつかは買い手が決まり、近年では所有権も移っていると言われています。

買い手の中からはサナトリウム公演商業施設としてベーリッツ・サナトリウムを開発する計画も出ており、現在の建物が壊されるのも時間の問題のようです。

 

④キジョンドン / 北朝鮮

北朝鮮のケソンからほど近く、韓国との国境近くにあるキジョンドンは1950年代に誕生してから現在まで、人が住んでいた時期が全くないとまで言われる偽物の村です。

夜になると村中の建物に明かりが灯り、朝になると消えますが、この明かりはタイマーによって自動的に灯されているもので実際には窓すらない張りぼてのような建物が多く建ち並んでいると言います。


引用元:https://news.yahoo.co.jp/

キジョンドンがつくられた目的は、韓国からの亡命を促進するためと考えられています。北朝鮮が順調に発展し、経済的にも豊かであることを宣伝することで韓国から流入してくる人が増えることを狙ったと言われているのです。

このような偽物の村を作ること自体は、歴史上珍しいことではありません。第二次世界大戦中には敵の爆撃機をおびき寄せるために「おとりの町」は至る所につくられ、パリを模したものも作られたほどです。

しかし、このような町はあくまでも期間限定で設けるものであり、作り方も粗末でキジョンドンのように長年持ちこたえられるようなものではありません。偽物の村をつくって、それを半世紀以上存続させているというのは、世界の歴史の中でもここだけと言えるでしょう。


引用元:http://www.newslinq.com/

キジョンドンは1953年に北朝鮮と韓国が休戦調停をしたことがきっかけとなって生まれた村で、この時に2国間には幅4㎞の非武装中立地域が設けられました。

この全長250kmに及ぶ中立地帯には両国が1つずつ居留地を定めることとなっており、韓国は以前からそこにあったテソンドンの村を残すこととしました。一方で北朝鮮は、最前線を挟んでテソンドンの対象となる場所にキジョンドンをつくったのです。

キジョンドンはテソンドンよりもはるかに規模の大きな村で、3つの地区には大きな建造物や公共施設、農地などが確認され、建物の中には豪華なタイルが貼られていることも確認されています。

現在でこそ、そこまで魅力的には映らないかもしれませんが、韓国の住民の大半が農家で、かやぶき屋根の家で暮らす世帯が多かった1950年代では、キジョンドンは富と未来を感じさせる村だったと推測されます。

しかし現在では北朝鮮が世界的に見ても貧しい国であるうえ、農村では餓死する人もいるということが知れ渡っており、キジョンドンに憧れて亡命してくる人などは存在しません。近年はキジョンドンに拡声器を設置して、韓国への批判や北朝鮮を称えるオペラを大音量で流すなど、狂ったプロパガンダを行っていると言います。


引用元:http://japanese.china.org.cn/

他にも北朝鮮には、1988年に韓国との共同でのオリンピック開催の話が持ち上がった際に着工した、105階建ての柳京ホテルといった廃墟候補の建物も存在します。

これは海外からの観光客や投資を呼び込むべく着工したものですが、20年近く完成しないままの状態で放置されていました。2008年にはエジプトの企業が出資し、2012年に開業予定と発表されたものの結局開業の目途は立たず、続いて2018年には建物を派手にライトアップする演出をして開業間近とも報道されました。

しかしテナントが集まらないらしく、北朝鮮は2019年内には工事が終わるとアナウンスしていますが仮にオープンしたとしても安全性などを考えて本当に宿泊する人がいるのか、疑問が集まっています。

 

⑤サトーン・ユニーク・タワー / タイ

サトーン・ユニーク・タワーは、タイの首都バンコクに位置する49階建ての高層ビルです。タワーの建設がされたのは1990年代の半ばで、この頃のタイは高度経済成長期にあったことから、富裕層の入居を見込んで着工されたのが、この高層マンションだったのです。


引用元:http://japanese.china.org.cn/

しかし着工した後の1997年、タイを発端とする通貨危機が起こり、ミャンマーやラオス、ベトナムと言った近隣諸国を巻き込むほどのアジアの経済危機が発生しました。

タイ中央銀行はなんとか自国の通貨を買い支えようと必死になりましたが、思うように果たせずに、大掛かりな事業からはどんどん海外資本も引き上げていくこととなったのです。

そしてその煽りを受けて、サトーン・ユニーク・タワーの建設も中止。そのまま20年以上放置されることとなりました。

2014年にはこの場所でスペイン人の男性が自殺をしており、現在は心霊スポットと目されるようになったサトーン・ユニーク・タワー。

立ち入り禁止地区としてフェンスが張られていますが、中に入ることは容易であり、建物内には管理人と自称する謎の人物がいて奥に進むには600円ほどの入場料を払う必要があるとも言われています。

住民用の駐車場として使う予定であった場所には違法駐車や違法駐輪がされており、建物内には多数のホームレスが住み着いていることから、廃墟と言えでも活用している強者が少なからずいる様子です。

 

⑥プリピャチ / ウクライナ

プリピャチはウクライナの北部にある街で、1970年につくられました。この町はチェルノブイリ原子力発電所から4km程しか離れておらず、かつてはチェルノブイリ原子力発電所に働く労働者とその家族が5万人近く暮らしていたと言います。


引用元:https://www.ststworld.com/

1986年4月にチェルノブイリで四合炉が破損し、その日のうちにプリピャチに住んでいた人々は着の身着のままで避難。当初、住民は僅か3日間だけ避難をすると聞かされていましたが、2度とプリピャチに戻ることは許されませんでした。

市民は強制的に約1,000台のバスに乗せられて街を離れ、陸軍の地元駐留部隊の戦車やヘリコプターも、そのまま打ち捨てられたと言います。

その後、四号炉は爆発。原子力発電所側が3日間もこの事実を隠ぺいしたことから、プリピャチは致死レベルの放射能に晒され続けたのです。


引用元:http://en.rfi.fr/

かつてのプリピャチはソ連の中での模範とされていた都市で、集合住宅の多くは明るいセラミックのタイルで舗装され、住民の平均年齢はなんと26歳と若く、毎年1,000人以上の新生児が誕生するという活気にあふれた場所でした。

夕方になるとベビーカーを押した夫婦がパレードのように列を作って通りを歩き、市内の通りにも「熱狂者」や「人民の友」といった変わった名前が付けられ、ソ連の希望の象徴とも言える存在であったと言います。

しかし世界最悪の原発が発生して以降は、プリピャチに人が住めるようになるには900年かかるとまで発表され、放射線降下物の通りにあった松林は枯れて変色し、事故直後は胚がドロドロに溶けた馬の死体も発見されました。

避難の際、ペットや家畜は捨てていくように言われたため、プリピャチには多くの動物が取り残されたのです。


引用元:https://metro.co.uk/

21世紀に入っても場所によってはまだ高濃度のセシウムが検出されているため、現在では「チェルノブイリ原発見学ツアー」などでしか訪れることが許されていないプリピャチですが、建物を割って植物が侵食しているこの街には、実に多様な野生生物が住み着いていることが分かっています。

2000年代の半ばに行われた調査では、プリピャチとその周辺の立ち入り禁止区内には280種の鳥と66種の哺乳類が確認されており、クマの存在も確認されていると言います。また、事故時に取り残されたと思われる犬も繁殖して野犬化しており、植物には放射能に適応するために、環境ストレスから身を守る酵素を多量に蓄えるようになるといった変化が見られました。

この予想外の変化を受けて、2005年には当時のウクライナの大統領であったヴィクトル・ユシチェンコ氏が、プリピャチを自然保護区域に指定することを発案し、以降地方政府では「チェルノブイリ自然公園」設立が検討されています。

 

⑦オルドス市街カンバシ新区 / 中国内モンゴル自治区

中国の内モンゴル自治区にあるオルドス市カンバシ新区は、高層アパートが建ち並び、美しく整備された広大な公園も点在する近代的な街区です。外見上は魅力的に見えるオルドス市ですが人口密度は1㎢あたり18人にも満たないため、高層マンションのほとんどに人が住んでいないというゴーストタウンと化しています。

21世紀に入って豊富な石炭資源を背景に急成長を果たしたオルドス市は、2012年のGDPが2000年と比べて20倍以上、市の歳入は50倍以上にも膨らむという急成長を遂げました。

しかし、近年では石炭価格の低下とともに絶好調であったオルドス市の経済にも陰りが見られるようになり、建てた住宅にも入居する人がおらず、無人の状態で放置されているのです。

実は中国ではこのような街というのは珍しいものではなく、都市の郊外に立派な居住区を建てたものの、結果利用する人があまりいなかったというケースは複数見られます。

つまり一時的に景気が良くなった場所に過剰投資をした結果、思うような利益の回収ができなかっただけという場所は他にも見られるのですが、オルドス市にはもう1つ特殊な事情があると考察されています。

オルドス市の中心部には広大な宮殿がつくられており、そこから街路が放射状に伸びて、権力を誇示するような印象を与えます。オルドス市はもとは大半が草原の小さな田舎町であり、その中心部の一角にだけ華々しいニュータウンをつくるという、住民の意思を無視した都市計画の結果生まれた地区がカンバシ新区です。

地元の政府は、田舎町として侮られてきたオルドス市を自らの権力と栄誉の象徴に作り替えたいと考え、市内を満遍なく整えるのではなく中心部のカンバシ新区だけを無駄に豪華な区域にしたという疑惑があります。

実際にカンバシ新区を整備する際にその土地に住んでいた400世帯を強制退去させたものの、区画の整備後も呼び戻すことをしませんでした。自分たちが理想とするカンバシ新区に貧乏な農民を住まわせるわけにはいかなかったため、区外に追いやったのです。

利便性や実用性よりも、地元の政府が考える「理想の街」を優先しているため、現時点でも大半の建物に人が住んでいないにもかかわらず、カンバシ新区にはさらに新しい高層ビル群が建設されています。

土日であってもカンバシ新区の公園や百貨店には客がおらず、店員や清掃員が客の数倍多いと言います。

市内には、上の画像のような誰の利用しない無駄に洗練された外観の美術館や博物館も多数存在するのですが、どうやらこれは「無駄こそ権力の象徴」という中国の皇帝に見られる価値観に即したものだと言います。

このような点から、カンバシ新区は外観は新しいものの、その中身は中国古来の価値観に縛られた前時代的な場所とも揶揄されているのです。

 

⑧オラドゥール=シュル=グルタ / フランス

かつてフランス中南部のリムーザン地方に存在した村が、オラドゥール=シェル=グルタです。この村は第二次世界大戦中の1944年、ナチス・ドイツの武装親衛隊「第2SS装甲師団ダス・ライヒ」によって襲撃を受けており、僅か1日で村の全住民にあたる約500人が虐殺されるという悲劇が起きています。


引用元:https://pauseculture.fr/

オラドゥール=シェル=グルタが襲われた原因は、ドイツ人将校がフランスのレジスタンスによって村のどこかに幽閉されているという密告でした。

しかし実際には囚われていたドイツ人将校はおらず、誤情報だったのです。しかし、この情報を真に受けたナチスは何も知らない村人を子供も含めて協会に集め、外から火を放って全員惨殺しました。


引用元:http://familles-de-fusilles.com/

戦後、フランス政府は忌まわしい土地となったオラドゥール=シェル=グルタを破壊されたままの姿で保存することを決めました。戦争の狂気によってもたらされた惨劇を、後世に知らせることが大切だと判断したのです。

現在も廃墟となった村には燃えて残骸となった乗用車や、焦げて崩れたレンガの建物、焼けたミシンや自転車などが転がったままの状態で放置されています。

これも当時を忘れてはいけないというための配慮で、1999年には当時のフランス大統領ジャック・シラク氏によって、メモリアル施設「サントル・ド・ラ・メモワール」がこの地に開設されました。

現在、この廃墟となった村と国道を挟んだ西側には新しいオラドゥール=シェル=グルタの村がつくられており、人々は平和な生活を営んでいます。

 

まとめ

廃墟の中には人間の活動の失敗によって生まれたものも多く、廃墟とは歴史の負の側面でもあります。

まるで旧約聖書のソドムとゴモラのような滅び方をしている場所も多く、人間のせいで人間が住めなくなったという場所も少なくありません。

朽ち果てて誰も住まない場所や建物というのは何故か人を惹きつける魅力がありますが、かつてそこにいた人はどこに行ってしまったのか、何故そのような場所が生まれたのかに思いを馳せると、場所を作っては棄てている人間の業の深さがうかがえます。

Copyright © 2019 雑学ミステリー All Rights Reserved.