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日本史上最悪の凶悪事件14選

世界的にも安全な国として知られる日本ですが、年間に発生する殺人事件は平均約800件とも言われており、単純計算でも毎日2~3件の殺人事件が発生していることとなります。それでも先進国の中では群を抜いて殺人事件発生率は少ないとされるものの、凶悪な殺人事件や傷害事件などは日本にも数多く存在するのです。昭和から平成までに発生した様々な事件の中から、特に悪質と考えられるものを発生年代順に紹介していきます。

 

昭和の凶悪事件

昭和に起きた事件と言うと、あさま山荘事件やグリコ森永事件、三億円事件などが有名ですが、昭和初期には「バラバラ殺人」という言葉を生んだ玉ノ井バラバラ殺人事件や、日本の犯罪史上に残る大量殺人となった津山事件など様々な凶悪事件が発生しました。昭和の時代の凶悪事件を7選紹介していきます。

 

玉ノ井バラバラ殺人事件(昭和7年・1932年)

1932年の3月7日、玉ノ井(現在の東京都墨田区東向島付近)の通称・お歯黒ドブと呼ばれる遊郭一円を囲う売春宿の下水溝で、ハトロン紙にくるまれた男性のバラバラ死体が発見されました。

包みの中にあったのは推定30歳ほどの男の頭部と胸部、臍から下の臀部が切断されたものでした。被害者の身元は1月以上不明でしたが、水上署の巡査から3年前に尋問した浮浪者男性に被害者の顔が似ているとの報告があり、これを元に捜査を開始。

結果、男性が転がり込んでいた家の兄弟が容疑者として浮かび上がったのです。浮浪者の男性は資産家だと身元を偽って長谷川市太郎(当時39歳)の家に入り込み、謝礼を払うと騙って寄生し続けていたのだと言います。

なかなか出ていかない浮浪者男性に腹を立てた長谷川市太郎は、同居していた弟の長太郎(23歳)と、とみ(30歳)と共謀して男性を殺害。バレないように遺体を分割したうえで、吉原の遊女の逃亡を防ぐために張り巡らされたお歯黒ドブに遺棄したのでした。

この事件を機に「バラバラ殺人」という言葉が生まれ、以降日本でも殺人の露見を防ぐために被害者の遺体を分割する犯罪が多数発生しました。

 

津山30人殺し事件(昭和13年)

1938年5月21日深夜、岡山県津山市近くの山村で、たった1人の青年が1時間半の間に30人もの村人を惨殺するという事件が起こりました。

犯人となったのは当時22歳であった都井睦雄。都井睦雄は結核のため自宅療養をしており、病が原因で村人から冷遇されていました。また結核が判明して徴兵検査に不合格となって以降は、それまで関係を持っていた女性達からも距離を置かれるようになったこともあり、村人に対する憎悪の念を募らせて犯行に及んだものと見られています。

都井睦雄は自分を袖にして他の村の男と結婚した2人の女性のことを特に激しく恨んでおり、彼女達が村に戻る日を狙って犯行に及びました。

事件当日の午前1時にまずは自分の祖母の首を斧で跳ね、日本刀1振りと匕首2口、改造したブローニング銃を持って家を飛び出し、次から次へと近隣の住居に押し入っては村人を殺害していったのです。そして30人の村人を殺害した後、都井睦夫は隣町に民家で紙と鉛筆を借りて遺書を書き、持っていた銃で自ら命を絶ちました。この凄惨な事件は後に、横溝正史の小説『八つ墓村』のモチーフとなっています。

 

寿産院大量もらい子殺し事件(昭和23年)

1948年1月12日夜、新宿区弁天町の路上で4つの木箱を抱えた不審な葬儀屋を警察が目撃して尋問したところ、木箱の中からは5体の乳児の遺体が発見されました。そして葬儀屋を取り調べたところ、寿産院という産院から乳幼児の遺体1体につき500円を貰って埋葬をしていたこと、これまでに30件は乳幼児の埋葬を引き受けていたことが判明したのです。

この時の5体の遺体は3人が肺炎と栄養失調、2人が凍死であることが判明。1月15日に寿産院の会長で助産婦の石川ミユキ(51歳)と夫の石川猛(55歳)が逮捕され、4年間に渡って子育てができない親から乳幼児を引き取り、養育費を受け取ってた後に子供が欲しい家庭に引渡し、里親からは謝礼を受け取っていたことが発覚しました。

乳幼児用の配給品も闇市に横流しをしてお金を得ていたのですが、ベビーブーム以降、乳幼児の貰い手がいなくなると世話もせずに餓死させて、養育費だけを不正に入手していたのです。

寿参院で死亡した乳幼児は100人以上と見られていますが、当時の世論では「どうせ孤児だったのだから」という意見も多く、判決も主犯の石川ミユキが懲役4年、石川猛に懲役2年という軽いものでした。

 

新宿駅西口バス放火事件(昭和55年)

引用元:https://gendai.ismedia.jp/

1980年8月19日の21時過ぎ、新宿駅西口のバスターミナルに停車中のバスに中面男性が近づき、ガソリンと火のついた新聞紙を投げ込むという事件が発生しました。

犯人である丸山博文(38歳)は立ち去ろうとしたところを通行人に取り押さえられて逮捕されましたが、この事件では逃げ遅れた父子を含む6人が死亡、10数人が重軽傷を負いました。

丸山博文は数日前に路上でコップ酒を飲んでいたところを邪魔だと怒鳴られ、それが頭に来たために憂さ晴らしとして無関係のバスに火をつけたと供述。裁判では心神耗弱状態であったことが認められて無期懲役となりましたが、後に丸山は作業着を使って刑務所内で首を吊り、命を絶ちました。

 

練馬一家5人殺し事件(昭和58年)

1983年6月28日午後12時40分頃、東京都練馬区の会社員宅で朝倉幸次郎(48歳)が逮捕されました。この会社員宅の家族5人は朝倉によってバラバラ死体にされて浴槽の中から発見され、事件当日に林間学校で留守だった長女だけが難を逃れることができました。

朝倉は不動産鑑定士をしており、1983年2月から競売にかけられていた会社員男性の家を競売で競り落とすも、一家はなかなか立ち退かずに交渉は難航。苛立ちから、一家全員を殺害した後に蒸発を偽装しようと思い立ちました。

逮捕前日の6月27日に朝倉は会社員男性宅に入り込むと、一家を次々に殺害。その後、遺体をのこぎりでバラバラに切断した後、内臓は電動肉挽機でミンチにしてトイレに流したのです。

異常に気付いた隣人が会社員男性の親族に電話をして警察が派遣され、朝倉はその場で逮捕となりましたが、被害者の中には1歳の長男や6歳の三女、9歳の次女も含まれていたと言います。

 

名古屋アベック殺人事件(昭和63年)

1988年2月23日午前4時半頃、愛知県名古屋市の公園で、少年T(事件発生当時、高志健一と実名報道される)をリーダーとする少年少女6名からなる不良グループが停車していたNさん(19歳)の車を鉄パイプなどで襲い、引きずりだしたNさんに木刀で滅多打ちにするなどの激しい暴行を加えたうえ、一緒にいたNさんの恋人(20歳)を強姦するという事件が起こりました。

少年グループはNさんとNさんの恋人を拉致して車で連れまわした後、Nさんの恋人を出入りしていた山口組系弘道会薗田組の組員に売り飛ばそうと計画するも相手にされず、頭にきて2人とも殺すことを決意。

24日午前4時30分頃に愛知県長久手町の公園墓地でNさんをゲーム感覚で絞殺し、Nさんの恋人を再度強姦したうえで翌日の午前2時頃に三重県阿山郡の山林で彼女も殺して、2人の遺体を埋めました。

同月の27日には警察は目撃情報からTらの少年グループを逮捕。翌年の6月18日に名古屋地裁はTに死刑を言い渡しましたが、後にTの控訴を受けて高裁が矯正の可能性ありとして無期懲役に減刑されました。

 

名古屋市妊婦切り裂き殺害事件(昭和63年) /  未解決

引用元:https://www.news-postseven.com/

1988年3月18日19時40分頃、名古屋市中川区の新興住宅地のマンションに仕事を終えて帰宅した夫(31歳)が、臨月の妊婦であった妻(27歳)が腹部を裂かれた姿で倒れているのを発見。

妊婦は両手を縛られて電気コードを首に巻かれて絶命しており、腹部はカッターのような薄い刃物で縦38cm、深さ2.8cm程度切り裂かれており、その傷口からへその緒を切り取られた胎児が取り出されていました。

さらに取り出された胎児の代わりに、妊婦の子宮には電話機と車のキーが詰め込まれているという奇妙な状態でした。無理矢理取り出された胎児は傷を負っていたものの、幸い一命は取り留めています。

警察は当初第一発見者の夫を疑っていましたが、夫には犯行推定時刻に会社にいたというアリバイがあり、事件当日に30歳前後の小柄なサラリーマン風の男の目撃情報があったことから捜査するも足取りが全くつかめず、事件は未解決のまま2003年に時効が成立しました。

 

平成の凶悪事件

平成に入ると発生する事件の手口もより悪質なものとなり、無差別大量殺人も複数発生しました。また平成以降に発生した事件では、被害者の生い立ちや心理状態について分析した資料や、面会をしたやり取りが出版されることが増え、TVや新聞で報道されるような事件のアウトライン以上のものを知る機会も増えてきました。

平成の日本で起こった事件の中から、特に悪質なものを7選紹介していきます。

 

女子高生コンクリ詰め殺人事件(平成元年)

引用元:https://snjpn.net/

1988年11月25日20時過ぎ、埼玉県三郷市でアルバイト先から帰宅中の女子高生(17歳)に目をつけた少年グループのリーダーA(宮野裕史・文春が実名報道をして物議を醸す)が、子分のCに命令をして自転車を蹴らせて転倒させ、Cが逃げた後にAが駆け寄って彼女を助けるという芝居をしたうえで安心させ、送っていくと騙してホテルに連れ込んで強姦するという事件が発生しました。

その後Aは被害者の女子高生をCの家に連れ込み、2階で監禁を開始。Aと3人の子分のB、C、Dは彼女に性的虐待を続け、監禁から数日後に被害者が隙を見て警察に通報しようとしたのを発見してからは、さらに暴行はエスカレートしていきました。

殴る蹴るのほかにライターで火をつけるといった集団リンチが始まり、満足に食事も与えられなかった被害者はやがて衰弱し、監禁から41日が経った1989年1月4日、麻雀に負けた苛立ちからAはC、Dとともに被害者を数時間に渡って殴り続けたことが原因で絶命。

その後、A達は被害者の遺体を旅行鞄に詰めて車で運び、ドラム缶に入れてコンクリートを流して工事現場に放置して逃走ています。

しかし、同年の3月29日に別の婦女暴行事件で収監となったAが女子高生の殺害を自供したことから、事件が発覚して犯行に関わった4人全員んが逮捕されました。

この事件では監禁場所となったCの家にいた親は事件を知っていたものの、見て見ぬふりを続けていたことや、地元の不良グループの中では被害者が監禁されていたことは有名だったにもかかわらず、誰も通報しなかったことなども大きな批判の対象となりました。

さらにそれぞれに5年~20年の懲役刑が下されるも、2004年には出所した純主犯格と見られる神作譲が知人男性を監禁暴行して逮捕、主犯格の宮野裕史が振り込め詐欺グループの一員として逮捕、2018年には監禁場所を提供した湊伸治が軽トラックの運転手に因縁をつけて絡み、首をナイフで刺すといった殺人未遂容疑で再度逮捕されています。

 

幼女連続殺人事件(平成元年)

引用元:https://www.fnn.jp/

1988年8月22日、埼玉県入間市で幼稚園児Aちゃんが行方不明となり、次いで10月3日に埼玉県飯能市でも小学1年生の女児Bちゃんが、12月9日にはまたしても幼稚園児Cちゃんが行方不明となりました。

そして同年の12月15日に埼玉県名栗村(現在は飯能市)の杉林でCちゃんの遺体が発見され、警察は他の2件も含めて同一犯による誘拐の可能性を視野に入れて捜査を開始。

それから5日後の12月20日、Cちゃんの父親宛てに「C」「風邪」「のど」「楽」「死」と新聞から切り抜いた文字をコピーした文書が送られ、翌年2月6日の早朝にはAちゃんの家に、同様に「A」「遺骨」「焼き」「証明」「鑑定」の5文字をコピーした怪文書と、Aちゃんの遺骨や衣服、サンダルが入った段ボールが置かれているという衝撃的な展開を迎えました。

さらに警察が置かれていた段ボールなどから捜査網を絞っていく最中、6月5日に東京都江東区の公園にいた保育園児のDちゃんが行方不明になり、埼玉県飯能市の宮沢湖霊園内のトイレから遺体が発見されるという新たな悲劇を生まれてしまいます。

同年の7月23日、小学1年生の女児を山林に連れ込み、裸にしてビデオを撮ろうとしていた宮崎勤(印刷業・当時26歳)が、息子の不審な様子に気付いて跡をつけてきた父親に捕まって現行犯逮捕。上の4件の犯行に関与していたことを認めました。

この時に公開された宮崎の部屋がビデオだらけであったことから、「オタク」という呼称が広がり、「オタクは犯罪者予備軍」という偏見も広がっていきました。

しかしアニメビデオばかりと報じられることも多かったものの、実際は宮崎が所有していた6000本のビデオはスプラッター・ムービーや特撮、アイドル番組、TVドラマなど多様な内容が含まれていたうえ、録画や収集することに重点を置いていたようで大半が未視聴ということが分かっており、報道されたようにアニメオタクだったのかどうかも不明です。

また、宮崎は「犯行を行ったのは自分ではなく、ネズミ人間かもう1人の自分」といったよく分からない発言をしたり、「21歳の時に、解剖行為は良いことだと啓示を受けた」と自分の行為を容認するような発言を繰り返したことでも知られています。

4人もの少女を殺害しておきながら最後まで罪の意識がなかった理由として、自分が行ったのは他界した最愛の祖父を蘇らせるための儀式であり、むしろ解剖という良いことをしたのだから、死刑にならないどころか無罪になると何の疑いもなく信じていたという宮崎勤独自の奇妙な思考が挙げられるでしょう。

このような点から宮崎勤という人物に関しては、犯行に及んだ理由は○○だからと明確に分析することができず、得体のしれない人間が起こした罪のない子供を狙った連続殺人として世間を震撼させました。

 

埼玉愛犬家連続失踪殺人事件(平成7年)

引用元:https://www.asagei.com/

1994年1月26日、大阪で犬の訓練学校の出資者を募り、金をだまし取ったうえで4人の男女を殺害していた上田宣範が逮捕されると、マスコミでは「埼玉にも人殺しの犬屋がいる」との噂が流れました。

実はこの時、既に警察は埼玉県熊谷氏にある「アフリカケンネル」というアラスカンマラミュートなどを繁殖する施設の経営者である関根元(53歳)と風間博子(38歳)夫婦に目をつけており、逮捕に向けて容疑を固めていたのです。

1993年に関根は、ローデシアン・リッジバックという種の犬の売買をめぐってトラブルになった会社役員の男性を筋弛緩剤を用いて殺害。遺体は群馬県片品村に運び、バラバラに解体した後、ドラム缶で焼却して灰を川に流していました。

その後、被害者男性の家族が怪しく思って関根の元を訪れると、関根は顔なじみの暴力団幹部を話し合いの席に同席させて家族を追い返すのですが、このことがきっかけとなって暴力団幹部に殺人がバレてしまいます。

すると今度は暴力団幹部と彼の運転手に筋弛緩剤を飲ませて殺害し、妻とともに遺体を解体して最初の被害者同様に川に流して始末したのです。

さらにはトラブルになった主婦も同様の手段で殺害。警察も遺体が無いために確実な証拠が掴めなかったのですが、遺体の処理を手伝わされた男性が警察に通報したため、関根夫婦の逮捕に至りました。

関根はケンネルを経営していたものの犬が好きだったわけではなく、子犬を売りつけた後に顧客の家に入り込んで売った犬を毒殺し、悲しむ飼い主に2頭目を売りつけるといったことも行っていました。

また関根は遺体の処理に関して「(遺体の)ボディを透明にすれば見つからない」ということをしきりに主張しており、この特徴的なセリフは、本事件をモチーフにした映画『冷たい熱帯魚』でも多用されています。

 

地下鉄サリン事件(平成7年)

引用元:https://jp.wsj.com/

1995年3月20日の午前8時頃、地下鉄日比谷線、千代田線、丸ノ内線の5つの車両で神経ガスのサリンがまかれ、ガスを吸った乗客や駅員が倒れる事件が同時に発生しました。

被害車両に乗り合わせた人は病院に搬送されて治療されましたが、死亡者12人、重軽傷者5500人以上を出す大惨事となりました。

この事件の前に長野県松本市でも同様にサリンによる集団中毒死が起こり、死者7名、重軽傷者144名を出したのですが、警察は自らも事件の被害者である河野義行氏を誤認逮捕。事件を起こしたオウム真理教を野放しにしてしまいました。

しかし、この他にも坂本弁護士殺害事件などとの関与が疑われていたオウム真理教の教祖である麻原彰晃(松本智津夫)は、人が集まる東京の、それも逃げ場のない地下鉄にサリンを撒くことで首都圏を混乱させて、警察の捜査の目をそらそうと考えたのです。

引用元:https://dot.asahi.com/

しかし実行から2日後の3月22日にはオウム真理教の教団施設25ヶ所に警察の強制捜査が入り、施設からサリンの残留物が押収され、さらに別件で追われて逮捕された林郁夫が犯行を自供したことから、教団が事件に関与していたことが明らかになりました。

そしてその10日後には、教団の隠し部屋に潜んでいた麻原が逮捕され、幹部や実行犯たちも次々に逮捕されたのです。

地下鉄サリン事件は海外からも薬品を使った大掛かりなテロ事件として注目されましたが、このような事件をオウム真理教が起こせた理由として、麻原が高学歴な人間や技術職や専門職に就いている人間に目をつけてマインドコントロールを施して入信させたいたことが挙げられます。

有能な外科医であった林郁夫もそのようにして教団に引き込まれた上、サリン事件を手伝っていたのですが、他の事件で警察に追われて教団を離れて逃亡生活を行ううちに洗脳が解け、サリン事件の全容を自供したとされています。

 

神戸連続児童殺傷事件(平成9年)

1997年5月27日午前6時40分頃、神戸市須磨区の中学校の校門前に切断された男児の頭部が置かれているのを、同校の管理人が発見しました。

発見された頭部の口は鋭利な刃物で耳まで切り裂かれており、両眼には×印が描かれ、頭は短冊状に切り刻まれて口には上の画像のような声明文が差し込まれていました。

被害者は3日前から行方不明になっていた小学6年生の男子児童で、同日の15時には小学校から500m離れたタンク山で被害者の胴体が発見されたのです。

事件発生前に現場付近では虐殺された猫や鳩の死体が頻繁に放置されており、さらに2月、3月には小学生女児を狙った連続通り魔が発生。被害に遭った4年生女児がハンマーで頭を殴打されて死亡していました。警察はこれら一連の事件には関連性があるとみて、捜査を開始。

警察はこの事件の犯人を目撃情報から20歳~40歳の男性と考えていましたが、実際に逮捕されたのは当時中学3年生の少年でした。

少年の自宅からはナイフが押収され、少年は通り魔的に女児を撲殺したことと、男児を殺害して犯行声明を出したことをあっさりと認めたものの、動機は「人の死を理解するためには、自分が誌を作り出さなければいけないと思った」と意味不明なことを供述していました。

引用元:https://mainichi.jp/articles/

この事件がきっかけとなり少年法が見直された他、雑誌『FOCUS』がまだ未成年であった加害者少年の顔写真を含む個人情報を掲載したことから、未成年の犯罪者の情報公開についても議論が交わされました。

また、2004年に医療少年院を仮退院した後の少年は2005年に手記『絶歌』を発売、同年に『存在の耐えられない透明さ』というHPを開設したことを出版社に告知。2015年には有料(月額800円)のメールマガジンの配信を試みるなどの行動をしており、全く事件を起こしたことを反省していない、むしろ事件のことで金もうけをしようとしていると非難を浴びています。

 

大阪教育大学付属池田小学校児童殺傷事件(平成13年)

2001年6月8日午前10時20分頃、大阪府池田市にある大阪教育大学付属池田小学校に宅間守(37歳)が包丁を持って押し入り、2年生の教室にテラスから侵入し、児童を次々と切りつけた後に他のクラスに移動。1年生と2年生の教室で合計8名の生徒を刺殺し、児童13名と止めに入った教員2名に重軽傷を与えました。

宅間は犯行開始から約10分ほどで駆け付けた副校長らによって取り押さえられ、次いで到着した警察によって現行犯逮捕されています。

この事件では逮捕後の宅間に反省が全く見られず、精神疾患を装う、裁判や書簡を通して「あの世でもしばいてやる」「幼稚園ならもっと殺せた」と暴言を吐く、遺族に侮辱的な発言をして退廷させられるといった加害者の奇行も話題となりました。

宅間守は2003年8月28日に死刑が確定した後、翌年の9月14日には刑が執行されています。これは異例の早さなのですが、この間に臨床心理士の長谷川博一氏は、宅間と15回の面会を果たしています。

この面会の中で宅間は、「ほんまは、(犯行の途中で)もうやったらあかん、やめないかんと思って」「子供達には何の罪もない。自分が子供の立場やったら、無念やったと思う」「本能っちゅうんですかね、良心の呵責ですわ」と、徐々に事件に対する自分の本心を明かすようになり、マスコミで報じられていたような「モンスター」ではない一面を垣間見せるようになったと言います。

宅間は幼い頃から父親に躾と称して異常な暴力を受けており、自分達のことは厳しく折檻するものの、資産家の出であった母親の財産をあてに暮らしているだけの父親に激しい憎悪を抱いていました。

また、殴られている子供を見ても庇うでもなく父親の言いなりであった母のことも「あほ」と切り捨てています。そして「物心ついた5歳の頃には悪い人間になっていた。すぐにカッとなって暴力に頼る癖が完成していた。それまでの育てられ方が大切なんですわ」と、幼少期に普通に愛されることの大切さを語っていたそうです。

宅間は自身について「なりたくてこんな人間になったんやない。気づいたらもうなっとって、自分1人ではどうすることもできんかった」と、他人との正常な結びつきさえあれば自分だって普通の人間になれていた、このような事件は起こさなかったと語ったうえ、「だから責任は無いと思う。しかし、自分のような人間は生かしておけば同じことを必ずする。だから、社会のためには死刑でいなくなったほうがいいんや」と、死刑という判決を冷静に受け入れていました。

ちなみに宅間守の死刑が執行された後、彼に寄り添うような鑑定結果をまとめた長谷川氏のもとには「パリ人肉事件」の加害者である佐川一政から手紙が届き、中には「自分は宅間守のような虐待は受けていないのに、残忍な事件を起こした。何故あんなことをしてしまったのか、鑑定して欲しい」と綴られていたそうです。

しかし何の抵抗もできない子供、それもまだ幼児の延長線にいるような力のない1、2年生ばかりを狙ったという凶悪さから世間に激しい憎悪を向けられていた宅間守に中立的な見解を示したことで、当時の長谷川氏はネットなどで激しい中傷を浴びており、疲弊しきっていたことからこれには応じられなかったと言います。

 

北九州市監禁連続殺人事件(平成14年)

引用元:https://www.fnn.jp/

2002年3月、女子高生が監禁されていたマンションから抜け出して祖父の家に助けを求めたことがきっかけとなり、警察は彼女を監禁していた松永太(40歳)と緒方純子(40歳)を逮捕しました。

その後、女子高生の証言で両名が彼女の父親を監禁させて衰弱死させた事件や、緒方純子の親族6人(5歳と10歳の子供を含む)も監禁したうえで、お互いに殺しあうように仕向けたという事件が発覚したのです。

松永はもともと布団の悪徳販売会社を経営しており、従業員を監禁して、その友人や親せきに粗悪な布団を売り捌かせていました。そして、成績の悪い社員には電気ショックを与えるなどして、抵抗する気力を奪って服従させていました。

1992年に松永は恐喝と詐欺で指名手配されると、既に洗脳していた緒方を伴って逃亡。逃亡資金を得るために、出会った人を騙して監禁しては虐待し、金をむしり取っていたと言います。

被害女子高生の父親であるT氏が同様の目的で監禁されて衰弱死すると、松永は遺体を緒方と女子高生に遺体を解体させて海や公衆便所に遺棄させました。つまり、娘に自分の父の遺体を切り刻ませたのです。

数年後に緒方が家を出て連絡がつかなくなると焦った松永は緒方の親族に連絡を取り、「純子さんが人を殺した」と親族を脅して監禁し、緒方が戻ると松永は巧みな話術で親族同士がリンチをしあうように仕向け、毎晩徹夜で緒方の処遇について話し合わせるようにしました。

そして正常な思考力がなくなった6人の親族に殺し合いをさせ、死者が出ると松永に指名された人物がフードプロセッサーやのこぎりを使用して、遺体を解体処分していきました。

公判で松永は自らをコペルニクスになぞらえ、「印象や直感により地動説にくみするのではなく、客観的に、科学的に、合理的に証拠を分析、検討して事実を発見する努力をしていただきたい」と36分もの間、熱弁を振るったのだそうです。

女子高生の父親にも排泄物を無理やり食べさせる、厳冬期に水のシャワーを浴びさせるなどの虐待をしていたたにもかかわらず、それを「健康維持のための愛情」と言い切り、「自分は詐欺師だから人殺しはしていない」と強気な態度でいましたが、共犯者の緒方純子が犯行を供述すると状況は一転。

遺体の処理の方法や子供を人質にして大人を操る手口などが証言され、被害者の遺体も全て処理されていて物証もなかったものの、死刑を覚悟したうえで緒方が事件の詳細を供述したことで、松永の死刑が確定。現在、松永は死刑囚として福岡拘置所に収監されています。

 

まとめ

2019年7月18には、京都アニメーションのスタジオが放火されて、同社の社員が35名死亡、34名が負傷するという悲惨な事件が発生しました。逮捕された青葉真司(41)は自分の作品をパクられたという妄執に囚われており、これが犯行動機と見られています。

自らも重度な火傷を負っていたために入院していた青葉真司でしたが、2019年9月に入ってようやく意識が戻ったとの報道がありました。

今後、戦後最悪の事件の1つとされるこの事件についても進展が見られることでしょう。この事件が令和で最大にして唯一の凶悪事件となること、そして、せめて遺族の無念をくんだ判決がなされることを願うばかりです。

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