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実在した世界の凄腕スパイ10選

スパイとは、政府機関などの組織に雇われ、敵対する人物や組織に関する情報を得る人間のことで、諜報員や工作員と呼ばれることもあります。

自らの正体が露見しないように諜報活動を行うことは、スパイにとって重要な使命であり、優秀なスパイほど人に知られずに任務をやり遂げます。

そのため、普通スパイがその正体を現すことはなく、あとになったあの人物がスパイだったのだと判明することがほとんどです。

しかし、彼らの人知れぬ影での働きがときには歴史を動かす大きな成果になることもあるのです。

ここでは、のちにスパイであることが明らかになった世界の有名なスパイ達について紹介していきます。

ケンブリッジ・ファイブ

引用:eurowebsitekgb.weebly.com

ケンブリッジ・ファイブは第一次大戦後の戦間期から第二次大戦時にかけてイギリスで活動していた、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジの出身者5人組のスパイグループです。

彼らは祖国を裏切り、ソ連のための諜報員として働いていました。

ケンブリッジ・ファイブのうち、4人目までは分かっていますが、5人目に関しては現在でも正体不明で、謎の5人目の男と呼ばれています。

大物スパイの亡命事件

引用:www.mirror.co.uk

1956年2月、世界を揺るがす大スクープがイギリスの『サンデー・タイムズ』紙にとりあげられました。

元BBC職員でイギリス国内の治安維持を担う機関であるMI5のガイ・バージェスと、閣僚の息子で外交官だったドナルド・マクリーンの2人がモスクワへと亡命し、同時に2人が長きにわたりソ連のスパイとして働いてきたことが判明したのです。

この亡命事件をきっかけにして、イギリスの外交・諜報機関に巣くっていたケンブリッジ・ファイブというウイルスがあぶり出されることになりました。

ケンブリッジ・ファイブのメンバーは、それまでにいくつか疑わしい行動をとっていたにも関わらず、それぞれの機関で重要な職務に就いていました。

バージェスは、国内の治安維持を役目とするMI5から外務省に移り、アメリカのワシントンD.C.勤務を歴任しました。

マクリーンもワシントンに配属され、イギリス外務省のアメリカ局長にまで出世した人物で、大戦中のアメリカの原爆開発に関する機密をソ連に漏らしたとされています。

ボルコフの密告

最初に、ケンブリッジ・ファイブの存在が露わになりかけたのが、1945年8月の在トルコソ連領事だったコンスタンチン・ボルコフがイギリスの外交官に接触してきたときです。

ボルコフはイギリスの政府内部に3人のスパイがいると告げてきました。

しかし、この話はすぐに当のケンブリッジ・ファイブの耳に入ることになります。

これを聞きつけたのは現在判明しているケンブリッジ・ファイブのメンバーのなかで最大の大物とされているキム・フィルビーでした。

フィルビーは元ジャーナリストで1940年からはイギリスの国外での情報収集を行う諜報機関であるMI6に諜報員になっていました。

フィルビーは、イギリスからソ連に送り込まれるスパイと、ソ連からイギリスに送り込まれるスパイの両方を知る立場にありました。

フィルビーはすぐさまソ連にボルコフのことを報告し、ボルコフは直ちに粛清されます。

フィルビーの亡命

引用:www.telegraph.co.uk

しかし、1950年代になると、第二次大戦中にソ連が英米の核開発に関する機密事項を手に入れていたことが判明し、この情報を漏らしたのがイギリスのアメリカ大使館に勤務している暗号名「ホーマー」というスパイであることが突き止められました。

ホーマーの正体としてマクリーンに嫌疑かかり、このことを知ったバージェスがそれをマクリーンに伝え、2人の亡命につながりました。

マクリーンは「ホーマー」、バージェスは「ヒックス」、フィルビーは「スタンレー」の暗号名を使用していました。

そして、この件でフィルビーの立場も危うくなります。

当時のフィルビーは、100人の部下を抱えるMI6の対ソ連部署の責任者であり、アメリカ滞在中はCIAの高官と週に1度は食事をするなかで、アメリカ内部の諜報機関にも精通する人物でした。

フィルビーもスパイとして取り調べを受けることになりましたが、決定的な証拠がなく、彼自身の頭の良さからくるスキのない受け答えで、なんとか有罪になるのを免れました。

MI6を免職になったフィルビーは再びジャーナリストに戻りますが、1961年にKGBのアナトリー・ゴリツィンがアメリカに亡命した際に提供した情報でスパイであることが確定的になったため、1963年にKGBの手引きでソ連へと亡命しました。

第4の男

引用:www.independent.co.uk

フィルビーの逃亡で終わりかにみえたケンブリッジ・ファイブですが、4人目の男の正体が判明するのはそれから16年もたった後でした。

元MI5のアンソニー・ブラント(暗号名:ジョンソン)がスパイであることがわかったとき、世間は大きな衝撃を受けました。

彼はナイトの称号をもち、コートールド美術研究所の所長であり、王室所蔵美術品の管理責任者だったのです。

社会的地位も高く、国王ジョージ6世の絵画鑑定人を務めていたこともあるブラントがスパイ行為を行っていたというのは多くの人にとってすぐには信じられないことでしたが、ブラントは逆に自分の立場を諜報活動に利用していたのです。

ブラントはケンブリッジ大学で有望な学生にスパイのスカウトも行っていました。

初めは否認していたブラントですが、最終的にはMI5に対して自らスパイであることを認め、すべてを自白し、その代わりに美術史家として名誉ある地位にとどまることを認められました。

第5の男の正体

引用:www.thehistorypress.co.uk

ケンブリッジ・ファイブは5人組のスパイ集団なのですが、5人目(暗号名:リスト)がいったいだれなのかは現在でも不明で、何人か容疑者として名前が挙がっています。

最も有力とされているのは、他の4人と同じ時期にトリニティー・カレッジに在籍していたジョン・ケアンクロスです。

バージェスの亡命直後、彼の部屋からケアンクロスのメモが見つかっており、彼も一部モスクワに情報を漏らしたことは認めています。

1990年にKGBを離脱したオレグ・ゴルディエフスキーをはじめとして、ケアンクロスが第5の男だという関係者は多いのですが、他の人物だという意見も根強く存在します。

フィルビーと接触のあったジャーナリストのゴロンウィ・リースや、MI5の高官でフィルビーとのつながりもあったガイ・リッデル、戦時中MI5で勤務していた第3代ロスチャイルド男爵、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルの家庭教師を務めていたケンブリッジ大学の教官アンドリュー・ガウなどが疑わしい人物とされていますが、確定的な証拠がある人物はいません。

5人の特殊な関係

ところで、ケンブリッジ・ファイブに関しては、メンバー間で同性愛の関係にあり、同志としての絆を強めていたといわれています。

仲間や情報源との恋愛関係や性的関係を利用して信頼感を強めるという手法はスパイにおいてよく用いられるものですが、彼らの活躍していた1930~40年代に同性愛はまだまだタブーとされていて、それを共有することはケンブリッジ・ファイブのメンバーをより強固に結び付けていったと考えられます。

ソ連に亡命したケンブリッジ・ファイブのメンバーですが、バージェスとマクリーンは亡命を後悔してイギリスに帰りたいと口にし、2人の遺骨をイギリスに還され、フィルビーだけはソ連の地に葬られ、死後KGB大将の地位を贈れた彼の肖像画はソ連の切手にもなりました。

金賢姫

引用:www.mocacafe.tokyo

金賢姫は、1987年にソウルオリンピックの妨害を目的として北朝鮮が起こした大規模なテロ事件である大韓航空機爆破事件の実行犯として知られる人物で、北朝鮮の美人スパイといわれた諜報員です。

外交官である父親のもと、北朝鮮のなかでは比較的裕福な家庭に育った金は、平壌外国語大学の日本語化に在籍中に工作員としてスカウトされ、日本人拉致被害者である田口八重子から日本語と日本文化の教育を受けました。

「蜂谷真由美(はちや まゆみ)」という日本人女性になりすました金は、同じく「蜂谷真一(はちやしんいち)」を名乗る金勝一とともに、1987年11月29日バグダッド発ソウル行きの大韓航空機858便をビルマ沖で爆破しました。

このとき使われたのは、時限装置付きのプラスチック爆弾が入った携帯ラジオと液体爆弾を入れた酒瓶でした。

直前にバーレーンでこの飛行機から降りていた2人は容疑者として逮捕され、日本の旅券は偽造されたものであり、北朝鮮のスパイであることが発覚しました。

2人はタバコを吸うフリをして青酸カリで服毒自殺を図りましたが、金賢姫の砲だけは一命をとりとめました。

彼女の身柄は韓国へと引き渡され、取り調べがはじまります。

金賢姫は、自分が日本人であると言い張りましたが、彼女の聴取内容は矛盾だらけで、「日本にいた時に使っていたテレビのメーカーは」という質問に北朝鮮ブランドのチンダルレと答えてしまうほどでした。

捜査官にソウル市外へと連れ出された彼女は、北朝鮮で教育されてきたのとはまったく違う韓国の繁栄ぶりを目にし、周囲を気にせず政治批判をする一般市民に姿に衝撃を受けます。

さらに、彼女は逮捕されたときに拷問や暴力、最悪の場合には殺されることも覚悟していましたが、取り調べの最中にそういった行為は一切ありませんでした。

祖国に対する忠誠に疑念が生まれたのか、金賢姫はついに自分の犯行を自白しました。

彼女には死刑判決が下されましたが、その後特赦によって放免され(そのため元死刑囚と呼ばれることがあります)、韓国で結婚して子供ももうけました。

金賢姫が後に発刊した自伝は、ベストセラーになっています。

最高の二重スパイ ガルボ

引用:www.lasegundaguerra.com

ガルボは、第二次大戦で活躍した最も優れた二重スパイといわれる人物で、本名はフアン・プホル・ガルシアといいます。

スペイン出身のガルシアは、当時スペインで独裁政権を築いていたフランコ将軍を失脚させることを望み、イギリスの情報機関に協力したいと申し出ますが、断られてしまいます。

そこで、彼はドイツの国防軍情報部(アプヴェーア)のもと、「アラベル」のコードネームでスパイ活動を開始します。

しかし、ガルシア自身は祖国で起こったファシズム陣営と共産主義陣営によるスペイン内戦の経験から、ファシズムを毛嫌いしており、ヒトラーのことを「人間性を破壊する悪魔」と呼んでいました。

こうしたスタンスが後に彼を二重スパイの道へと走らせたと思われます。

アプヴェーアの命を受けたガルシアは、スパイ活動を行うためにイギリスへと向かいますが、旅券が偽物だと見抜かれたため、ロンドンへいくこともできず、代わりにポルトガルのリスボンに赴きます。

ガルシアはそこで偽のスパイ網をさも作り上げたかのようにして、本や雑誌の情報をもとにイギリス軍に関するそれらしいスパイ報告書をドイツ本国へ送り続けます。

ガルシアの報告書はドイツには高く評価され、ドイツ側は無線を使いガルシアへ連絡をとろうとしました。

しかし、彼がイギリスにいなかったため、この不審な暗号無線はイギリス軍にキャッチされ、逆にガルシアの存在を気づかせることになります。

スパイの捜索をはじめたイギリス軍にガルシアは自らコンタクトをとり、今度はイギリスのスパイになることを認められました。

戦争中、イギリスはダブルクロス作戦として、ドイツ側のスパイを取り込み、二重スパイに仕立て上げるという活動を積極的に行っていました。

ガルシアは、イギリスから当時有名だった女優グレタ・ガルボの名前をもとに「ガルボ」というコードネームを与えられます。

ノルマンディ上陸作戦を成功に導いたスパイ

引用:en.wikipedia.org

ガルシアは、イギリスから与えられた「1942年11月に連合軍が北アフリカに上陸する」などといった正確な情報を、ギリギリ間に合わないタイミングでドイツに送りました。

その結果、ドイツからは「見事な報告書だったが、間に合わなかったことを残念に思う」という連絡がくるほど、ガルシアは正確で信頼できる情報をもたらす諜報員として評価されていました。

ガルシアは、提供したくない重要な情報については、そのエリアを担当していたスパイが死亡したなどという理由をつけてドイツ本国を欺き、イギリス諜報機関は地方新聞にそのスパイが本当に死んだとみせかけるため偽の死亡記事を載せるなどして協力しました。

ガルシアは、逆にドイツのスパイの存在をイギリスに密告することもしていました。

ガルシアの偽情報の一部はベルリンの駐在武官を通じて日本へも流れていました。

ガルシアがスパイとして最も大きな功績を残したのが史上最大の作戦といわれるノルマンディ上陸作戦の時で、このときガルシアは、「連合軍はフランスのパ・ド・カレーに上陸準備を進めている」という緊急報告を送り、ドイツを見事に欺きました。

ヒトラーは連合軍の真の狙いがパ・ド・カレーだと考え、連合軍がノルマンディ上陸に上陸しているにも関わらず、大軍をパ・ド・カレーに据え置き、ドイツ軍は有効な反撃を行うことができませんでした。

ドイツ、イギリス両国から優れたスパイと評価を受けたガルシアは、ドイツからは「鉄十字章」を、イギリスからは「大英帝国勲章」と敵味方両方から勲章を授与されています。

リヒャルト・ゾルゲ

引用:www.sankei.com

リヒャルト・ゾルゲは、日中戦争から第二次大戦期にかけて日本で活動していた、20世紀最大ともいわれるソ連のスパイです。

当時、ドイツと同盟を結んでいた日本が、ドイツのソ連侵攻に呼応してソ連に攻め込む可能性はなしという報告をモスクワに送ったことで有名です。ドイツ人の父とロシア人の母のもと、ロシアで生まれたゾルゲは、幼い頃に一家でドイツに移住しました。

1919年、ドイツ共産党に入党したゾルゲは、赤軍参謀本部第4局の指示のもと、スパイ活動を行うようになります。

1930年にドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙の記者という肩書きで上海にやってきたゾルゲは、朝日新聞の記者でのちに近衛文麿内閣のブレーンになる尾崎秀実(おざきほつみ)、アメリカ人で共産主義者だった女性スパイのアグネス・スメドレーらとスパイネットワークを築き上げます。

尾崎の人的ネットワークを介して、近衛文麿や西園寺公望といった日本の政界中枢に位置する要人たちからの情報を収集し、ドイツがソ連に侵攻した際には同盟国の日本がそれにあわせてソ連を攻撃しないよう、日本軍がインドネシアやフィリピンといった南方に攻め込むように尾崎を使って働きかけました。

当時の日本では、政府の中枢にまで共産主義のスパイが入り込んでいたのです。

ゾルゲからの情報で日本の侵攻はないと判断したソ連軍は、シベリアの部隊をヨーロッパ方面に転用し、モスクワに攻撃をかけるドイツ軍との戦闘に投入することができました。

モスクワ戦での敗北により、電撃的にソ連を占領するというドイツの計画は挫折し、独ソ戦は最終的に1945年にソ連の勝利という形で幕を閉じます。

ソ連の勝利に大きな貢献をしたといっていいゾルゲですが、1941年9月ゾルゲ事件と呼ばれるスパイの摘発により、逮捕され投獄されます。

もはや彼の利用価値は低いと判断していたソ連は、ゾルゲを切り捨てることを決め、1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行されました。

戦後、1965年にゾルゲにはソ連邦英雄の称号が授与され、東ドイツでは記念切手も発行されています。

明石元二郎

引用:ja.wikipedia.org

明石元二郎は、日露戦争で活躍した日本陸軍の軍人で、ロシア公使館付武官として諜報活動を行いました。

福岡藩出身の明石は、陸軍士官学校卒業後、ドイツへの留学を経て、日露開戦の2年前である1902年にロシア大使館付武官になります。

当時から、ロシア国内で情報収集やロシアの反政府分子との接触といった活動が行われており、1904年に日露戦争が開戦すると、明石は参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という特別職に就任し、中立国スウェーデンのストックホルムに移動します。

参謀本部次長の児玉源太郎大将から「欧州のことは貴官に一任する」と伝えられ、現在の価値にして数百億という巨額の資金を与えられました。

明石はすぐに敵国ロシア内での工作を開始し、帝政ロシアに反抗する有力者への接触や反政府活動の扇動、反乱蜂起の画策などを行い、ロシアの戦争からの離脱を促します。

明石の活動もあってロシア国内の反政府活動は激化の一途を辿ります。

1905年に黒海で起きた戦艦ポチョムキンの反乱では首謀者への資金援助や武器・弾薬の補給などを行ったとされます。

ある参謀は「明石の活動は陸軍10個師団に相当する」と評価し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「明石元二郎1人で満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」といって称賛しました。

最高の女性スパイ シンシア

引用:ksiazki.wp.pl

シンシアは、本名をエリザベス・ソープといい、第二次大戦中にイギリスのMI6およびアメリカ戦略諜報局(OSS)で活動していたスパイで、大戦中最も優れた女性スパイといわれています。

大きな青い瞳と金髪がかった赤毛をもち、10代のときから背が高く大人びた容姿のシンシアは、大人たちを引きつける魅力をもった女性でした。

アメリカのミネソタ州出身で、海兵隊を退役後、弁護士になった父のもと、比較的裕福な生活を送り、1929年、19歳のときに当時住んでいたワシントンで20歳年上のイギリス人外交官と結婚します。

外交官の妻からスパイの道へ

夫の転勤に伴い、チリやスペインなどに移り住んだ彼女は、マドリッド在住のとき、夫からイギリスの諜報活動を行うために協力することを求められ、スパイの道に足を踏み入れました。

美しく社交的だった彼女はマドリッドの社交界で絶大な人気を誇り、様々な男性から情報を得ることができたのです。

1937年夫に伴い、シンシアはポーランドへと移住し、夫の補助だけにとどまらず自発的なスパイ活動を行うようになっていきます。

これには、夫婦仲が冷めていたという理由もあったようです。

ポーランドでシンシアはある外交官からヒトラーがチェコ併合を企てているという情報を入手し、イギリスに報告します。

MI6の諜報員シンシア

彼女の功績を評価したイギリスの対外情報部であるイギリス秘密情報部(SIS、通称MI6)に正式なスパイとして採用され、「シンシア」のコードネームを与えられます。

夫とも離婚し、スパイの道に専念することになった彼女は、イギリス安全保障調整局(BSC)長官スティーブンスンの下で働くようになります。

最初に与えられたのは、イタリア大使館からイタリア海軍の暗号を入手するという大きな任務で、イタリア海軍の提督を抱き込んだシンシアは見事暗号情報を聞き出すことに成功します。

フランスの暗号を入手せよ

これによってスティーブンスンの厚い信頼を得たシンシアは、次に、当時ドイツの傀儡だったフランスのヴィシー政権に関するスパイ活動を命じられます。

ワシントンのフランス大使館員シャルル・ブルースを抱き込んで情報を入手していたシンシアに、ヴィシー・フランスの海軍暗号を入手せよという困難な任務を与えられます。

ブルースと金庫破りのプロを伴い大使館の暗号室に侵入したシンシアでしたが、最大の障害となる夜間巡回の警備員と遭遇します。

ここでシンシアは全裸になって警備員にブルースとの情事を見せつけました。

気まずくなった警備員はその場を離れ、シンシアは金庫から暗号書を盗み出しフィルムにおさめることに成功します。

この情報は1942年に行われた連合軍によるヴィシー・フランス勢力圏の北アフリカ進攻作戦への大きな貢献となり、シンシアは連合軍最高の女性スパイといわれるようになりました。

シンシアは後にブルースと結婚し、南フランスに移住しています。

ルドルフ・レスラー

引用:historyofspies.com

ルドルフ・レスラーは、「ルーシー」のコードネームで第二次大戦時に活躍し、ソ連最高のスパイと評された人物です。

第一次大戦後にミュンヘンでジャーナリストをしていたレスラーは、1939年ごろから、ソ連参謀本部のスパイ集団「赤いオーケストラ」のスイスを拠点とするアレクサンダー・ラドのグループに所属してスパイ活動をはじめます。

ルーシーとなった彼がソ連に提供したナチス・ドイツに関する情報は驚くほど正確で、はじめは半信半疑だったモスクワも、次第に絶大な信頼を寄せるようになっていきました。

赤いオーケストラは、レスラーに月1700ドルという破格の報酬を与えました。

日本でスパイ活動をしていたリヒャルト・ゾルゲのスパイグループ全体に支払われていた報酬が1000ドルであることを考えるとこれがいかにすごいことかわかるでしょう。

独ソ戦の天王山となったクルスクの戦いで、レスラーはドイツ軍の配置や兵力、攻撃時期についての正確な情報をソ連に送りました。

謎の情報源

彼の正確な情報がいったいどこから入手したものなのか、その情報源は現在でも謎とされています。

上司であるラドは何度もレスラーから情報源を聞き出そうとしましたが、彼は決して口を割ろうとはしませんでした。

一説によると、彼の情報源はヒトラーの側近であったマルティン・ボルマンだといわれています。

他には、ドイツのエニグマ暗号を解読してウルトラ情報として利用していたイギリスの諜報部が、ソ連が降伏することのないよう、ドイツにソ連とイギリス・アメリカという二正面作戦を強いるため、あえて暗号解読で得られた情報を流し、戦況がソ連有利になるように仕向けたというものもあります。

最高のスパイといわれたレスラーですが、その裏には各国の思惑が錯綜し、彼自身も実はいずれかの国にいいように利用されていただけの存在なのかもしれません。

川島芳子と中島成子

引用:www.jiji.com

川島芳子は、かつての満州国を舞台に活躍した女性スパイです。

17歳のときに断髪し、以後男装で過ごしていたため、「男装の麗人」とも呼ばれます。

芳子はもともと日本人ではなく、それどころか、中国清朝の第10代粛親王善耆(あいしんかくら ぜんき)の第14王女で本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)といい、中国皇族の出身でした。

父の顧問だった日本人、川島浪速(かわしまなにわ)の養女となった芳子は日本で生まれ育ち、成人後に渡った上海で日本陸軍の将校田中隆吉(たなかりゅうきち)の愛人となり、日本の諜報員として活動するようになります。

芳子は、関東軍参謀だった板垣征四郎の依頼を受け、中国人を雇って日本人僧侶を襲撃させ、第一次上海事変のきっかけを作り出したり、満州国皇帝・愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)の皇后・婉容(えんよう)を天津から脱出させるなど数々の工作に携わりました。

戦後、中国で売国奴や国賊を意味する「漢奸」になった芳子は、1948年3月に銃殺刑に処せられました。

芳子のライバル中島成子

中国大陸で活躍した日本軍の女性スパイとして芳子とともに有名なのが、中島成子(なかじましげこ)です。

芳子に勝るとも劣らないほど優秀なスパイで、2人はライバル関係にありました。

20歳のときに日本赤十字社に志願し、満州で看護師として働いていた成子は、その当時から軍閥政治家・張作霖の息子張学良の家庭教師をしていて、その頃からいろいろな情報に触れる機会をもっていました。

1931年に勃発した満州事変以降、スパイ活動を行うようになった成子は、主に関東軍から当時戦争中だった日中間の交渉役を任されていました。

成子が得意としていたのは中国国民党軍や馬賊に対しての帰順工作で、こちらが相手を信頼しなければ相手からの信頼も得られないという信念のもと、交渉に赴くときは常に丸腰だったということです。

多くの工作を成功させた成子は、女性でありながら、日本軍では少将と同格に扱われていました。

ライバルだった川島芳子は犬猿の仲として有名で、2人は目が合っただけでもたちまち険悪な雰囲気に包まれ、芳子が飼っていた子猿と成子が飼っていた仔犬までもが仲が悪く、この確執は周りから「川中島の戦い」と呼ばれていました。

戦後、中国軍に逮捕された成子ですが、「自分はなにも悪いことはしていない」と決して罪を認めず、12年におよぶ獄中生活のあと、1957年にようやく日本に帰国しました。

アルジャー・ヒス

引用:japaneseclass.jp

アルジャー・ヒスは、第二次大戦から冷戦期にアメリカで弁護士および国務省の高級官僚を務めた人物です。

国際連合の設立にも携わったヒスですが、実はソ連の協力者としてスパイ活動を行っていたことが分かっています。

メリーランド州ボルチモアで5人兄弟の4人目として生まれたヒスは、ジョンズ・ホプキンズ大学、ハーバード・ロースクールを卒業し、最高裁判所判事オリバー・ウェンデル・ホームズの秘書を務めた経験もあります。

1933年からは農業調整局に勤務して1929年からの世界大恐慌に対するアメリカの景気対策であるニューディール政策にも関わっています。

1936年からはアメリカ国務省に勤務し、1945年の第二次大戦後を見据えた連合国首脳の話し合いの場であるヤルタ会談に、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近として、国務省を代表して出席しています。

1946年には第1回国際連合総会にアメリカ代表団首席顧問として参加するなど、官僚としてのヒスの順風満帆な人生に陰りが見えたのは1948年8月のことです。

チェンバースの告発

元アメリカ共産党の党員で、後にFBIの協力者となったウィッテカー・チェンバースが、アメリカ国内で活動しているソ連のスパイとしてヒスの名を告発したのです。

チェンバースは、ヒスが1936年と37年に国務省の機密書類をソ連に流していたと供述しました。

ヒスはこれを事実無根として反発し、アメリカ下院で行われた非米活動委員会の公聴会での質問攻めにも巧みに答えて、自身の潔白を世間に信じさせることに成功します。

このとき、ヒスがスパイだと最後まで信じて譲らなかったのが、当時の下院議員で後にアメリカ大統領になるリチャード・ニクソンでした。

しかし、当時のアメリカでは共産主義者を公職から追放する「赤狩り」の嵐が吹き荒れており、1950年に偽証罪で有罪判決を受け、5年の懲役を宣告されます。

再審は認められず、当時は行き過ぎた赤狩りの犠牲者として世間の同情を集めたヒスですが、後にアメリカとイギリスの情報機関が行っていたソ連スパイの暗号解読をまとめた「ヴェノナ文書」によって、ヒスの正体が本物のスパイだったことが明らかになりました。

ヒスはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局で、当時はソ連赤軍第4局と呼ばれていた)に所属し、長年にわたりスパイ活動に従事していました。

アンナ・チャップマン

引用:www.pinterest.jp

アンナ・チャップマンは、ロシア対外情報庁(SVR)に所属し、IQ162という高い知能と美しい容姿を武器にスパイ活動を行い、「美しすぎるスパイ」と呼ばれました。

1982年、ロシア西部のヴォルゴグラードに生まれたアンナは、本名をアンナ・ヴァシーリエヴナ・クシチェンコといいます。

父親は元KGB(ソ連国家保安委員会)の幹部で、ロシアの国防相や副首相を歴任したセルゲイ・イワノフと同僚として働いていたこともあるようです。

こういった家庭環境がどれほど影響したか定かではありませんが、大学卒業後、イギリスの航空会社ネットジェッツ・ヨーロッパやバークレイズ投資銀行、ヘッジファンドなどに勤務していた期間にも諜報活動を行っていたのではないかといわれています。

学生であった2001年にロンドンのダンスクラブで知り合ったアレックス・チャップマンと結婚し、イギリス国籍を取得、アンナ・チャップマンになり、後に離婚したあとも結婚時の姓を名乗っていました。

離婚後のアンナは、ロシアに戻りモスクワでベンチャー企業を立ち上げ、敏腕女性経営者として知られるようになります。

2010年2月、アメリカに入国したアンナは、アメリカ人になりすまして、表向きにはマンハッタンの不動産ベンチャー企業「TIME Venchures」の女社長を演じながら、アメリカの核弾頭開発計画に関する情報を入手するためスパイ活動を行っていました。

しかし、FBIのおとり捜査員により、スパイであることが露見し、モスクワに逃亡しようしたものの、2010年6月27日、アンナは他のスパイ9人とともに逮捕されました。

彼女が逮捕前にフェイスブックなどに上げていた画像から、美しすぎる女スパイとして一躍有名になり、マスコミからの大きな注目を集めます。

アンナは、アメリカのスパイという嫌疑をかけられ、ロシアで服役していた4人との交換でロシアに帰国できることになり、ロシアに戻った彼女はまるでスターのような扱いを受け、メドベージェフ大統領からは勲章まで授与されます。

アンナ自身もモデルやテレビ出演など芸能活動もはじめ、ビジネス紙の編集長も務めるなど精力的な活動を行うようになり、2013年にはモスクワのファンド・サービス・バンク銀行の取締役に就任しています。

まとめ

以上、実在した世界のスパイについて紹介してきました。

古今東西、どの国や組織も諜報活動には力を入れてきましたし、ここで見てきたようにスパイの中には国家の行く末や歴史を左右する大仕事を成し遂げた人物もいます。

しかし、真の優秀なスパイは歴史に名を残さない、ともいわれます。

世界の歴史の中には、誰にも知られずに途方もない成果を上げながらも、スパイであることを知られることなく、最後まで影の存在として消えていった知られざる凄腕スパイたちがいるのかもしれません。

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