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宇宙船か異形の天使か? 神の乗り物「メルカバ」の謎

融合され仕込まれたふたつの情報

異星人及びその乗り物の寓喩ではないかとして、『新約聖書』「エゼキエル書」冒頭の一段が真っ先に挙げられる。

まずは問題の一節を見てみよう。

「第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。

これはエホヤキン王の捕え移された第五年であって、その月の五日に、主の言葉がケバル川のほとり、カルデヤびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。

わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て……」(「エゼキエル書」第1章1〜4節)

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神が乗る大いなる雲を幻視するエゼキエル。だが、「エゼキエル書」の記述にはいくつもの矛盾が見られる。

 

預言者の頭に神の手が触れると神霊が注がれ、預言(託宣)や神の下す幻影を見ることが可能となる――。右に描かれる神の乗り物「大いなる雲」はそうした所産、神の霊が依憑き脳裏に映じられた幻影の中でエゼキエルが見た光景ということになる。

 

ところが、そうだとするとこの一節はおかしい。神が立ち現れ、頭に手が置かれたことで幻影を見られる状態に入ったはずなのだが、そうなったときに北の方から「大いなる雲」が、つまりそれに乗る肝心の神がやっと飛来したというのだ。その時点では神の手はいまだ頭に載せられていないから幻影は見られないはずで、自家撞着というほかない。

加えて、エゼキエル自身が述懐する文体と彼を客観視した文体とがないまぜになっている点や、年次が30年、5年と別のものが並置されている点も、おかしいといえばおかしい。

この不可解をうまく説明するには、先に掲げたメルカバの段においてふたつの異なる情報が重複している可能性を想定するほかなさそうだが、そうであるなら、どんな寓喩がこの段には折り重なって仕込まれているのだろうか。

 

隠されたシャーマニズムの奥義

筆者は以前の「ムー」で、モーセの時代に遡さかのぼるユダヤ教内の根深い暗闘が存在することに触れた。

すなわち、神殿祭儀におけるシャーマニズムの流れと、理性主義による律法主義の流れとがあり、バビロン捕囚後に後者が勝利して主流となったことで、後者が再編纂した『聖書』から前者が抹消された。加えて「エゼキエル書」は前者の流れに属す、と。

留意すべきは、その現行『聖書』にエゼキエルの預言書が採録されている点だ。なぜ、排除されなかったのか。

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メソポタミアの遺跡から出土した銅製の四輪。これは壺を入れる荷車だが、側面に有翼の天使が刻まれている。おそらくケルビムの「四つの輪」もこれに似たものだったと思われる。

 

律法主義派の勝利は紀元前6世紀、ユダヤの民がバビロンへ拉ら致ちされて捕囚となり、神の霊を祀る神殿を失ったことでほぼ明らかとなった。そして捕囚時代を生きたエゼキエルは、『聖書』が彼らによりやがては再編纂されることを予想できた。となれば、なかば用なしとなった祭司一族の一員である彼が、一族に伝わるシャーマニズムの奥義が抹殺されぬよう、難解な寓喩表現に変換して温存を図ったことは十分に考えられる。

だとするならば、それが懸案のもうひとつの寓喩ということはないのだろうか。そうだとしたら、その黙示的叙述はどうすれば解き明せ、元情報を復元できるのだろうか。

秘儀についての情報を後人に残す目的でそうしたはずだから、解読できないものに仕立てたとは考えにくい。ならば、どこかに解く鍵が仕込まれているはずである。

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(ムー2019年5月号より抜粋)