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原本発見で始まる 『東日流外三郡誌』の逆襲

岩木山麓に残る謎の巨石

青森県の最高峰である秀麗な岩木山の北東麓に、「山風森」と呼ばれる杉木立に覆われた小丘がある。標高は70メートルもなく、海抜1625メートルの岩木山に比べれば目立たないごく平凡な丘陵だが、その中腹の一画に不可解な光景が広がっている。

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山風森の巨石遺跡。アソベ族の石神崇拝の痕跡か。現在は私有地なので許可なく立ち入りはできないし、ほとんど道がないので、案内人がいないと巨石までたどりつけない。

 

木立の中に、まるで散らばされたかのように、複数の巨岩が横たわっているのだ。その大きさや周囲の地層からすると、もとからこの場所にあったとはとても思えない。

――いったいだれが、なんのためにこんな巨岩をここまで運んできたのか。しかもなぜ、バラバラに置かれているのか。

このことを的確に説明してくれる、ある史料が存在する。

ある史にもとづくと、遙か遠い昔、津軽の岩木山一帯にはまだ山はなく、「アソベの森」と呼ばれる平野だった。そしてそこにはアソベ族と呼ばれる部族が暮らしていて、巨石を神として崇めていた。ところがその後、アソベの森が大爆発して岩木山が誕生し、アソベ族は壊滅してしまう。しかし、アソベ族のわずかな生き残りは、故地である岩木山の麓にいくつかの巨石を運び込み、その場所――のちに山風森と呼ばれることになる森の一画を聖地とした。

だが、時の流れにつれてその信仰も衰退し、巨石聖地もさびれていった。そして江戸時代の享保2年(1717)、その巨石はついに倒されて破壊される。先住民の歴史を抹殺し、彼らの古代信仰を淫祀邪教として葬り去ろうとした弘前藩による暴挙であり、信仰弾圧であった。だが、巨石は木端みじんに砕け散るまでには至らず、木立の中に散在して、アソベ族の古代信仰の痕跡をかろうじて残したのだった。

 

和田家文書への再評価

津軽のアソベ族の古代信仰と巨石聖地の顚末を語る、「ある史料」とは、はたして何か?

それは、『和田家文書』と総称される膨大な文書群だ。青森県五所川原市飯詰に在住していた和田家に伝来していたことからそう呼ばれているのだが、一般にはなじみが薄い史料だろう。

だが、「『和田家文書』の中に、あの『東日流外三郡誌』が含まれている」と書けば、耳をそばだてる人も多いはずだ。

『東日流外三郡誌』は東北の埋もれた秘史を明らかにしたものとして一時脚光を浴びたが、真贋論争の末、1990年代以降には「昭和戦後に書かれたもの」とする評価が通説となり、「偽書」の烙印が押されてしまった。

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『和田家文書』の原本と思われる古文書類(竹田侑子氏管理)。近年、江戸時代に作成された文書であることが確認された。

 

ところが、『東日流外三郡誌』に関しては外編・続編とも考えられる文章が大量に見つかっていて、未公刊のものもまだ数多くある。したがって近年では、この文書群を、『東日流外三郡誌』も含めて一括して『和田家文書』と呼ぶのが通例となっている。そしてこの膨大な『和田家文書』の中には、安易に「フェイク」と決めつけられないような内容も散見されるのだ。

その一例が、今、紹介した巨石をめぐる記述だ。

『和田家文書』には岩木山麓の巨石聖地に言及する文書がいくつかあるのだが、そのうちのひとつである、寛政5年(1793)に記されたとされる「鼻輪三輪神社之事」には、巨石聖地のことが挿絵入りで触れられているのだ(この挿絵は、巨石が破壊される前の、往時の聖地の状態を想像して描いたものと考えられる)。

そして今から12年ほど前、津軽在住の『和田家文書』研究者・玉川宏氏らが、この挿絵を手掛かりに巨石聖地跡を見つけようと岩木山周辺を徹底的に踏査した。すると山風森に『和田家文書』の記述と符合する例の巨石群を発見したのだ。そこは、今ではほとんど人が往来することもない、ジャングルのような森の中だった。

玉川氏はこの巨石群をアソベ族の古代信仰の遺跡と考えていて、発見された遺跡は『和田家文書』の記述が真正であることの、つまり同書が偽書ではないことの、重要な証拠であると主張している。

この他にも『和田家文書』偽書説を揺るがす動きがある。2006年ごろ、江戸時代に書かれた『和田家文書』の真正の原本と目される文書が複数みつかったのだ。

結局、『東日流外三郡誌』とは、『和田家文書』とは、いつ、だれによって、なぜ書かれたのか? それはやはり偽書なのか、それとも……?

ムー2019年10月号では、『和田家文書』への再評価で沸騰する津軽での徹底取材をもとに、東北秘史と幻のアラハバキ王朝の真実に迫る。

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(ムー2019年10月号より抜粋)