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世界最大の城ランキングTOP10

古代から、人類は世界中で数多くの城を築いてきました。

戦争のために使われる要塞や王侯貴族の居住の場など、その目的も多様なら、建てられた時代や場所によって、外観や城の大小も様々です。

そして、戦闘用であれ、生活用であれ、小さい城よりは大きい城のほうがメリットがあるといえます。

ここでは、世界中の城の中から、特に大きな城をランキング形式で紹介していきます。

第10位 エディンバラ城 (イギリス) 35737㎡

引用:www.travel.co.jp

エディンバラ城はイギリス北部スコットランドの大都市エディンバラにある城です。

キャッスル・ロックと呼ばれる岩山の山頂に古代から建っている要塞で、スコットランドの首都を見下ろすシンボルです。

スコットランド王の居城

長らくスコットランド王の居城として使われていたエディンバラ城には、スコットランドの王家の王冠や3つの戴冠用宝具が所蔵されています。

王冠は城内のクラウン・ルームに保管され、1540年に作られたもので、スコットランド産の金、94個の真珠、10個のダイヤモンド、33個の貴石と半貴石でできています。

エディンバラ城は、長きにわたるイングランドとの戦争のために、要塞化が繰り返され、強大な防衛力を誇るスコットランド軍の一大拠点としての機能を果たしていました。

ワン・オクロック・ガン

引用:http://zhao-zilong.seesaa.net

城内は堅牢な石造りの城壁をはじめ、大砲など今も残り、日曜日以外は毎日午後1時に空包を発射する「ワン・オクロック・ガン」といわれる儀式が行われています。

時間になると、民族衣装に身を包んだ衛兵が表れ、儀式めいたやり方で発砲を行うため、観光客にも大人気です。

かつては時代物の前装式18ポンド砲を使用していましたが、現在ではイギリス軍の主力野砲になっているL118 105㎜榴弾砲が使われています。

超巨大砲モンス・メグ

引用:ja.m.wikipedia.org

エディンバラ城には、攻城用に使われて石を射出する射石砲で、口径51㎝、6トンの超巨大砲モンス・メグも展示されています。

モンス・メグはかつてスコットランド王ジェームズ4世の軍艦に乗せられたこともあるといわれていて、これが本当だとすると、戦艦大和の46㎝砲を上回る世界最大の艦載砲ということになります。

城内にはほかにも、エディンバラ城で最も古い建物であるセント・マーガレット礼拝堂や悲劇の女王であるメアリ・スチュアートの部屋などがあります。

第9位 アレッポの城塞 (シリア) 39804㎡

引用:ja.wikipedia.org

アレッポ城はシリア北部の都市アレッポの旧市街の中心部に建つ大規模要塞です。

要塞の歴史は紀元前3千年紀中ごろまでさかのぼるとされ、ビザンツ帝国やアイユーブ朝、マムルーク朝など多くの国家によって占有されてきました。

1986年には世界遺産にも登録されています。

アレッポの丘は最初の預言者アブラハムがこの丘の上で羊の乳を搾っていたといわれるほど、古くから人々に親しまれていた場所です。

その後、東ローマ帝国やイスラム帝国など支配者を変え、現在の城塞はほとんどがアイユーブ朝時代のものとされます。

1516年以降、オスマン帝国に支配されるようになると、要塞の軍事的役割は次第に薄れていき、アレッポの街も市壁の外側へと拡大していきます。

オスマン帝国時代には兵士の宿舎とされ、フランスの委任統治がはじまると、考古学的な発掘作業もおこなわれるようになりました。

アレッポ城は外周約2.5㎞の楕円形の小山の上に造られており、かつては山全体が輝く石灰岩の塊に覆われていて、現在でも一部にはそれが残っています。

城内には、アブラハムのモスクやかつては兵舎だった博物館、オスマン帝国時代の風車やアイユーブ朝時代の宮殿、東ローマ帝国時代の貯水槽があり、現代になって建設された円形劇場では、コンサートや文化イベントなどが行われていました。

しかし、2011年から続くシリア内戦のため、アレッポの城塞も大きな被害を受けています。

第8位 姫路城 (日本) 41468㎡

引用:tripnote.jp

姫路城は、日本最大の城で、白亜に輝く優美な外壁から、別名「白鷺城」とも呼ばれます。

もともとは姫山城と呼ばれ、戦国時代に築かれたものですが、1600年に徳川家康の娘婿だった池田輝政のものとなり、西国の外様大名へ睨みを効かせる役割をもった城として、9年におよぶ大改修が行われました。

その後に入封した本多氏は、播磨姫路新田藩の初代藩主となった本多忠刻に嫁いだ家康の孫娘千姫のために、西の丸を整備し、姫路城は現代まで続くその姿を完成させました。

日本最大の城

引用:www.jalan.net

姫路城の5重6層の天守は現存する国内最大のもので、石垣を含めて高さは約46mにもなります。

最上階からは、城全体はもちろん、遠くの播磨灘までを一望することができます。

天守と3つの小天守を渡り櫓でつないだ当時最先端の連結式天守で、天守群は角度によって様々な見え方を楽しむことができます。

姫路城が整備されたのは関ヶ原合戦のころで、まだ日本国内に軍事的緊張が残っていた時代です。

そのため、姫路城は見た目の美しさだけでなく、軍事要塞としての機能も立派に果たせるよう、内部には様々な防衛設備が設けられています。

姫路城の防衛設備

引用:http://www.city.himeji.lg.jp

扉はどれも防火用の土扉と侵入者を防ぐ鉄扉の二重構造になっていて、城内には合計600以上の鉄砲掛けがあり、銃を撃つための高窓が129か所も備えられています。

地階には籠城戦に備えたトイレがあり、屋根裏には万が一のときに身を隠せる「武者隠」と呼ばれる秘密部屋も設けられていたり、石垣にも丸や三角、四角といった様々な形の狭間という鉄砲を撃つための穴が開けられています。

第二次大戦の戦火にも耐えた姫路城は江戸初期の建造物が現存し、国宝や重要文化財、世界遺産にも登録されています。

第7位 ブダ城 (ハンガリー) 44674㎡

引用:worldheritagesite.xyz

ブダ城は、ハンガリーの首都ブダペストのドナウ川に面した王宮の丘にたたずむ城で、かつてはハンガリー王の居城でした。

ブダ城のある場所には古代ローマの時代から軍事要塞があったとされ、現在の石造りの城は1241年、ハンガリー王ベーラ4世がモンゴル軍の攻撃によって破壊された木造要塞を再建したものが起源になっています。

その後、歴代のハンガリー王たちが居城とし、そのたびに増改築が繰り返されてきましたが、17世紀にオスマン帝国の攻撃によって破壊されてしまいます。

18世紀になると、オーストリアの女帝マリア・テレジアの指揮のもと、ブダ城は200以上の部屋数を誇る巨大なバロック様式の宮殿として再建されました。

第一次・第二次の両大戦でも甚大な被害を受けたブダ城ですが、そのたびに修復され、現在では「ドナウの真珠」と謳われる美しいブダペストの街を象徴する建物になっています。

ブダ城は小さな町に匹敵するほどの敷地面積を誇り、内部にはハンガリー国立美術館やブダペスト歴史博物館、軍事歴史博物館などがおかれています。

ドナウ川を挟んだ対岸には、ハンガリー初代国王イシュトバーンのミイラが安置されている聖イシュトバーン大聖堂が建っています。

第6位 スピシュスキー城 (スロバキア) 49485㎡

引用:si-p.net

スピシュスキー城(またはスピシュ城)は、スロバキア東部スピシュスケー・ポドフラジェ郊外に広がる大草原を見下ろす丘の上に建つ東ヨーロッパ最大規模の巨城です。

スピシュスキー城は12世紀に、タタール人の侵入に備え、かつてスラブ人の城があったところに築かれたものです。

長い間ハンガリー王に所有され、その後時代とともに城主を変え、1993年からはスロバキア政府の国有地になっています。

主を変えるたびに増改築が繰り返され、当初はロマネスク建築の要塞化された石城だったものが、ゴシック様式やルネサンス様式などが付け加えられ、最終的には後期ルネサンス様式の宮殿になりました。

最後の所有者だったツサースキー家は生活の不便さから引っ越し、城は1780年の火災によって廃墟になりました。

度重なる増改築でまるで迷路のようになっていた城は、地元の子供たちの格好の遊び場になっていたそうです。

20世紀になると城の修復が始められ、復元された一部は現在博物館として公開されていて、映画やテレビドラマのロケ地としても使われています。

第5位 ホーエンザルツブルク城 (オーストリア) 54523㎡

引用:worldheritagesite.xyz

ホーエンザルツブルク城は、オーストリア北西部ザルツブルクの街全体を見下ろす高台の上に建つ城です。

1996年には世界遺産にも登録されています。

ザルツブルクは紀元前から塩の交易によって栄えてきた街で、ザルツブルクという名前も、

「塩の城」と意味を持っていて、モーツァルトの出身地としても知られています。

8世紀に司教座がおかれると、以降は大司教を領主とするカトリックの教会都市として栄えてきました。

ホーエンザルツブルク城の歴史

ホーエンザルツブルク城が築城されるきっかけとなったのは、1077年の神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世による叙任権闘争です。

これは、皇帝と教皇のあいだでどちらが教会の司教などを任命する権限があるかを巡って争いになったもので、最終的には皇帝側が敗北し、ハインリヒ4世はカノッサの屈辱によってローマ教皇に許しを請うことになりました。

この事件を受け、ザルツブルク大司教のゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世は、皇帝派からの報復を恐れ、メンヒスブルク山の山頂に防衛のための要塞を建設し始めました。

それがホーエンザルツブルク城で、その後は歴代の大司教の居城として使用されました。

神聖ローマ帝国皇帝で赤髭王バルバロッサことフリードリヒ1世によるザルツブルク焼き討ちの際にも消失を免れました。

15世紀後半からはハプスブルク家やバイエルン王国など周辺の諸侯や王国の侵攻、市民の反乱に備えて、数々の巨大な塔や穀物貯蔵庫、防壁、武器庫などが増築されて城は膨張していきました。

城の中庭に建つゲオルグ教会には、軍人の守護神である聖ゲオルグが祭られていて、これもホーエンザルツブルク城が司教の居城としてだけでなく、軍事要塞としての高い能力を期待されていたことの現れでしょう。

17世紀ごろには現在の姿になったといわれています。

ナポレオン戦争時のフランス軍による占領を経て、1816年からはザルツブルクの街とともにハプスブルク家の支配下に入りました。

現在では博物館になっていて、在りし日に絶大な権力をもっていた大司教の権勢を現代に伝えています。

第4位 ウィンザー城 (イギリス) 54835㎡

引用:lon-don.xyz

ウィンザー城は、エリザベス女王が週末を過ごす城としても知られ、イギリスの首都ロンドンの西に位置し、テムズ川沿いに建てられたイギリス君主の公邸です。

ウィンザー城はイギリス王室の所有で約54000㎡もの広大な敷地を有し、居住者がいる城としては世界最大の城とされます。

ウィンザー城の歴史

引用:www.afpbb.com

イギリス最古の城であり、ヨーロッパで最も長く使われている王宮でもあります。

ウィンザー城の起源は、11世紀にウィリアム征服王がこの場所にモット・アンド・ベイリー方式の城を築いたことにはじまるとされます。

モット・アンド・ベイリーとは、古い城の形式の一種で、土塁と堀、外壁で構成されたものを指します。

現在のウィンザー城はロアー、ミドル、アッパーの3つの部分(ウォード)に分かれていますが、ウィリアム1世の砦はミドル・ウォードに位置していました。

ウィンザー城は、プランタジネット朝のヘンリー2世によって石造りになり、エドワード3世の時代に改築され、その後も改修を重ねていきました。

アッパー・ウォードにある公式諸間(ステート・アパートメント)は、1824年から66年の間に、ジョージ4世やヴィクトリア女王のために建てられました。

1992年には女王専用の礼拝堂にあったカーテンに押し付けられていたスポットライトが原因になって火災を起こし、大きな被害を受けるという事件も起こりました。

ウィンザー城の建造物

引用:tanne-jp.com

ウィンザー城には、中心に建つラウンド・タワー、多くの儀式が行われ来賓が来た時には迎賓館ともなるステート・アパートメント、イギリス王室のための礼拝堂である聖ジョージ礼拝堂、城の裏にある公園であるウインザー・グレート・パーク、ジョージ5世から王妃に贈るため4年の歳月をかけて製作されたクイーン・メアリーのドールハウスなどが様々な名所や備品があり、観光名所としても人気があります。

第3位 プラハ城 (チェコ) 66761㎡

引用:amazing-trip.xyz

チェコ共和国の首都プラハは、古くから「黄金の都」や「百塔の街」と呼ばれ、東欧でも有数の観光都市です。

プラハ旧市街にとびえるプラハ城は、かつて神聖ローマ帝国皇帝やボヘミア王の居城だった場所で、現在はチェコの大統領府がおかれています。

プラハ城は1992年に世界遺産に登録され、ギネスブックによると世界最古の城の中で最大の城とされています。

リブシェとプラハ城の伝説

引用:jp.depositphotos.com

プラハ城の起源についてはチェコに伝わる伝説があります。

チェコの伝説に登場する、未来予知の能力をもっていたリブシェという女性がいます。

リブシェはチェコの人びとの中で抜きんでた存在であったクロクという男の娘で、クロクの死後、人々をまとめる役割を果たしていました。

しかし、あるとき女性であるリブシェが皆をまとめていることに対して反発する声が上がりました。

そこで、リブシェは自らの能力によって夫となる人物を見つけ、さらに予知能力によって、ブルタヴァ側のほとりに城を作りプラハ城と名付ければ、城の栄光は天まで届くほどになる、という予言をし、人々をプラハの地に導いたとされます。

伝説では、これがプラハとプラハ城の起源とされています。

プラハ城の歴史

引用:amazing-trip.xyz

史実と現実が入り混じり、その起源には諸説あるプラハ城ですが、実際には9世紀の末、当時のボヘミア公ボジヴォイ1世によって築かれたとされています。

ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝4世のもとでゴシック様式の王宮となり、16世紀にハプスブルク家の支配下になるとルネサンス様式の建物が建造されるなど、歴代の主によって様々な建造物が造られ、いくつもの時代の異なる建築様式が入り混じっています。

プラハ城はフス戦争の白山の戦いや、三十年戦争によって荒廃しましたが、18世紀後半からオーストリアの女帝マリア・テレジアによって再建されました。

第二次大戦中、ナチスにより支配されていた時代には、プラハ城にチェコ統治府がおかれています。

1981年のチェコスロバキア共和国独立に伴い、大統領府がおかれるようになりました。

プラハ城の建造物

引用:amazing-trip.xyz

プラハ城は現在、その大部分が国立美術館や博物館として一般公開されています。

プラハ城には王宮のほかにも代表的な建物として、特にゴシック様式のヴィート大聖堂が有名です。

チェコ最大の教会で、100mもの高さを誇る壮大な尖塔をもち、聖堂には歴代のボヘミア王たちが葬られています。

聖イジー聖堂は、プラハ城で最も古い教会で、高さの違う二つの尖塔はアダムとイブと呼ばれています。

オーストリア皇帝ルドルフ2世が金細工師を集めて住まわせたことからその名がついたといわれる「黄金の小路」には、フランツ・カフカが仕事場として使っていたという建物が残っています。

ほかにも、火薬塔や庭園、正門前のフラッチャニ広場など有名なスポットが数多く存在しています。

プラハ城の秘宝

引用:blogs.yahoo.co.jp

聖ヴィート大聖堂の聖ヴァーツラフ礼拝堂に保管されているといわれるのが、ボヘミア王家に代々伝わる聖ヴァーツラフの王冠です。

ボヘミアの守護聖人である聖ヴァーツラフに捧げられたこの王冠は、11代のボヘミア王カール4世の戴冠に際して製作されたものです。

この王冠は、純度88~92%の金で造られ、サファイア、スピネル、ルビー、エメラルドなどの宝石によって装飾が施され、重さは約2.4kgにもなります。

この王冠には、王の座にふさわしくない者が被ると1年以内に死ぬ運命が待っているという言い伝えがあります。

実際に、第二次大戦中、チェコの副総督であり、独裁的な統治を行っていたラインハルト・ハイドリヒがこの王冠を被ってみたところ、1年もたたないうちにレジスタンスによって暗殺されるという事件が起こりました。

普段、聖ヴァーツラフの王冠はレプリカのみが展示されていて、本物は大聖堂の奥の部屋に保管されているといわれていますが、一般には正確な保管場所は秘密にされています。

王冠のある部屋へつながる扉は7つの鍵によって施錠されていて、それぞれの鍵は、チェコの大統領や首相、元老院議長、プラハ市長、プラハ大司教など7人が別々にもっていて、これらがそろわないと中に入れないようになっています。

第2位 メヘラーンガル城塞 (インド) 81227㎡

引用:tavitt.jp

メヘラーンガル城塞は、インド北部のラージャスターン州ジョードプルにある城塞で、小高い丘の上に築かれた巨大な要塞です。

かつてはマールワール王国、ジョードプル藩王国の君主が居城にしていた場所です。

1459年にマールワール王国の王ジョーダーによりそれまでの首都マンドールからの遷都が行われました。

その際に建造されたのが、居城であるメヘラーンガル城塞です。

城塞は、その後も敵の侵入に備えて、拡大が繰り返され、ジャスワント・シング王の治世まで続けられました。

ジャスワント・シングの死後、一時的にムガル帝国のものになりますが、その後に返還され、1818年に王国がイギリスの支配下に入ったあとも、1947年まで藩主の居城として使用されました。

メヘラーンガル城塞には7つの門があり、城壁の高さは36mにもなり、上にはたくさんの大砲が並んでいます。

城内には、最も煌びやかといわれる花の宮殿フール・マハルや、金箔と螺鈿といわれる青貝を使った装飾が各所に施された真珠の宮殿モティー・マハルなどたくさんの建物があります。

現在は、マハラジャ(地方領主)によって所有され、内部は歴史博物館になっています。

短剣や銃、槍といった数々の武具や、ゾウの背中に取り付けていた駕籠など当時の道具が展示されていて、王の居室や客殿、女性用居住区、儀式用の玉座、王族の肖像画、王子のゆりかごなどを見ることができます。

第1位 マルボルク城 (ポーランド) 143591㎡

引用:upload.wikimedia.org

世界最大の城ランキング、第1位となったのは、かつて広大な領土を支配したドイツ騎士団の本拠地であり、800人以上の騎士たちが暮らしていたという巨大城塞マルボルク城です。

マルボルク城はポーランド北部の都市マルボルクの、ノガト川の川岸に建つ、燃えるような赤レンガ造りの城で、ヨーロッパ最大のゴシック建築として知られています。

1997年には世界遺産にも登録されました。

ドイツ騎士団とは

引用:http://www.gregorius.jp

マルボルク城は、テンプル騎士団、ヨハネ騎士団とともに、中世ヨーロッパの三大騎士修道会といわれたドイツ騎士団が本拠地にしていた難攻不落の城塞です。

ドイツ騎士団は、中世に聖地パレスチナへと巡礼する信徒たちを保護することを任務として組織されたカトリックの修道会である、騎士修道会の一つで12世紀に生まれました。

13世紀前半にポーランド王コンラット1世の招きを受け、バルト海沿岸の守備を行うようになり、プロイセンといわれるこの地域で領土を広げていきました。

やがて、ドイツ騎士団はマルボルクを中心とした騎士団国家を誕生させ、14世紀には最盛期を迎えました。

19世紀のドイツ統一の中心となったプロイセン王国も、もともとはこのドイツ騎士団の流れを汲んでいます。

ドイツ騎士団は現在でも存続していて、約1000人の会員がいます。

マルボルク城の歴史

引用:世界遺産ハンター.com

マルボルク城は1230年ごろから騎士団のバルト海沿岸征服の拠点として建設され、その後も騎士団の隆盛とともに改築や増築が続けられ、その期間は約230年ともいわれます。

巨大にして難攻不落となったマルボルク城でしたが、ドイツ騎士団は、1410年のタンネンベルクの戦いでポーランド・リトアニア連合軍に敗れ、衰退していきます。

マルボルク城も1457年にはポーランド王に明け渡されることになり、1460年にはドイツ騎士団がこの地域から一掃されました。

その後、長きに渡ってポーランド王の所有する城でしたが、プロイセン王国が成立すると、マルボルクはプロイセンの領土になり、その後も第二次大戦が終わるまでドイツ領でした。

ナチス時代にはヒトラーユーゲントの活動に使用され、大戦末期にはドイツ軍が城内に立て篭もり、侵攻してきたソ連軍と激しい戦いを繰り広げました。

長い年月を経て、再び要塞として使用されたマルボルク城は、この戦いによって半分以上が破壊されるという大きな被害を受けました。

現在も、大聖堂など未修復の部分があり、EUの援助を得て修復作業が続けられています。

マルボルク城の建造物

引用:4travel.jp

マルボルク城のなかには、団長の宮殿だった高城の塔や歴代騎士団長らの墓石が置かれている聖アンナ礼拝堂、城内最大の部屋でかつては各国の要人たちを招いて盛大な宴が催された中城の大食堂などがあります。

高城の中庭にある井戸の屋根には、ペリカンの像があり、これは団長が騎士たちに「ペリカンは食べ物がないときは自分の肉を子供に与える」という話を訓示するためのものとされています。

まとめ

城といえば、一般には戦争のためのものだと思われがちですが、そのほかにも王族の住居としての役割や、他国からの客人をもてなす外交的な役割、宗教的な役割など多くの機能をもっています。

これらの巨大な城が建てられたのも、これらの役目を果たすため、多くの施設を建てたり、たくさんの人びとを住まわせる必要があったからだといえるでしょう。

もし、海外旅行の機会があれば、ここで紹介した世界の城に足を運んでみるのはいかがでしょうか。

 

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