都市伝説・考察・陰謀・不思議・オカルト

世界に実在する伝説の武器10選

みなさんは、伝説の武器といわれると、なにを思い浮かべますか?

アーサー王の聖剣エクスカリバーのような伝説の武器は、RPGをはじめとするゲームやフィクションなどファンタジー作品では大活躍し、有名なものもたくさんあります。

その多くは、神話や伝説、抒情詩といった創作の中にのみ登場するもので、実際に伝説の武器を見ることはかないません。

しかし、伝説とされる武器のなかには、実際に今も存在しているものがあるのです。

その多くは神聖な存在とされ、戴冠式に使われる重要なアイテムであったり、聖堂や神社で大切に保管されていたります。

ここでは、世界各地に実在する伝説の武器を紹介していきます。

カーテナ

引用:http://hatehatedaisuke.hatenablog.com

カーテナは、イギリス王室に代々伝わるもので、戴冠式において慈悲の象徴として王の前に奉持される剣です。

カーテナは、クルタナ、コルタナ、コルタン、クールタンなどと呼ばれることもあります。

カーテナの名称は、ラテン語で「短くされた、詰められた」という意味をもつ、curtusに由来し、切っ先や刃先のない刀剣であるため、無先剣や無峰剣と訳されることもあります。

カーテナは別名「慈悲の剣(ソード・オブ・マーシ:Sword of Mercy )」とも呼ばれ、「聖界正義の剣」「俗界正義の剣」「献納の宝剣」「国剣」などとともにイギリスの戴冠式で用いられる141点におよぶ儀式用物品である戴冠宝器(Crown Jewels)の1つに数えられます。

カーテナは、5世紀~10世紀にかけてフランスに位置していたフランク王国の最盛期を築いた、シャルルマーニュ大帝の聖騎士だったデーン人(デンマークに住んでいたノルマン人の一派)のオギールが使っていた剣であるコルタナに由来しています。

コルタナは、中世フランスの英雄伝説『ローランの歌』の主人公であるローランが所持していた聖剣デュランダルと同じ刃金を使って作られたとされています。

デュランダルとは、天使からシャルルマーニュにローランに渡すようにと授けられた剣で、その意味は、「長久の剣」「不滅の刃」など諸説ありますが、とにかく硬い剣であるとされています。

敵に包囲され、瀕死の状態になったローランが、デュランダルが敵に奪われることを恐れ、岩に切っ先を突き刺して剣を折ろうとしたものの、剣は岩を真っ二つにして折れることはなく、その代わりに切っ先が欠けてしまい、その結果、切っ先のない剣ができたといわれています。

ほかにも、カーテナに関しては、シャルルマーニュと戦うデンマークの英雄オジェ・ル・ダノワの剣だとする伝承や、シャルルマーニュ王の剣ジョワユーズと同じ材料・製法を使って作られているといった異なった伝承、アーサー王伝説に登場する騎士トリスタンの剣であったというものなど、様々な伝承が存在しています。

いずれにせよ、カーテナは伝説的存在とされている剣の遺伝子を継いでいる武器だといえるでしょう。

ただ、現存のものは、1642年の清教徒革命で一度失われ、チャールズ2世の代に再び作り直されたものだとされています。

カーテナは、現在のイギリス女王であるエリザベス2世の1953年の戴冠式でも使用され、現在はロンドン塔の宝物館で展示されています。

七支刀

引用:hirotravel.com

七支刀(しちしとう)は、奈良県天理市になる石上神社にある古代の鉄剣です。

七支刀は、全長74.8cm、重量1.2kgで、刀身のわきから段違いに片側3本ずつ、6本の枝刃が生えているという特異な姿をしており、その外見から七支刀と呼ばれるようになりました。

七支刀は、刀身だけしかなく、柄は存在していません。

このような変わった見た目の剣であるため、当然実際の戦闘に用いるための武器ではなく、儀式用に使われる神器のようなものであったと考えられています。

実際に、七支刀を所有する石上神社では、七支刀を剣ではなく鉾として六又鉾(ろくさのほこ)と呼んでいて、神田にその年はじめての苗を植える儀式に神を降ろすための祭具として使用されていました。

七支刀は、1953年(昭和28年)に国宝にも指定されています。

七支刀は、古代に石上神社に伝来したものですが、どのようにして伝わったものなのかという由来ははるか昔に忘れ去られてしまい、現在は不明となっています。

奈良時代に成立した歴史書で、現存する最古の正史である『日本書紀』には、「七枝刀」という記述がみられますが、これが七支刀と同じものかどうかはわかっていません。

七枝刀は、4世紀ごろに、朝鮮にあった国家である百済が、倭に対して朝貢をした際に献上したものとされています。

七支刀の刀身には、金象嵌の銘文が表裏60文字余りにわたって刻まれていますが、錆による腐食がひどいために読み取れない部分が多く、その意味や解釈を巡っては諸説あります。

主な解釈としては、高句麗の南下に危機感をもった百済と倭国が手を結び、両国の同盟の証として七支刀が贈られたと考えらえています。

引用:http://sanmao.cocolog-nifty.com

日本書紀には、七支刀と一緒に「七子鏡(ななつごのかがみ)」というものが贈られたと書かれており、これは、1875年に大仙陵古墳から出土し、現在はアメリカのボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかといわれています。

この鏡は、青龍、白虎、玄武、朱雀といった四神の霊獣が描かれ、裏に7つの円形突起があります。

デュランダル

引用:commons.wikimedia.org

先に、イギリス王室の宝器カーテナが伝説の剣デュランダルと同じ刃金で製作された剣だといわれていることを紹介しましたが、実はデュランダルそのものが現存しているという伝承も存在します。

デュランダルが今も眠るといわれるのは、フランス南部ロット県にあるロカマドゥールの町です。

古くから有名な巡礼地として知られるこの町には、岩に突き刺さった剣が存在しており、これがローランに与えられた伝説の剣デュランダルだといわれています。

ローランはシャルルマーニュの甥で、彼に使えた十二勇士のなかで最高の騎士であったといわれます。

敵の手に渡ることを恐れてローランが剣を叩きつけたのが、ロカマドゥールの岩で、剣は壊れずにそのまま突き刺さり、今でもこれが残っているとされています。

ロカマドゥールには、奇跡を起こすといわれる「黒い聖母像」のあるノートルダム寺院があり、ここを訪れた巡礼者たちは岩に突き刺さる剣を目にすることになります。

サン・ガルガーノの剣

引用:http://www.maniado.jp

イタリア、トスカーナのモンテシエピにあるサン・ガルガーノ修道院には、岩に突き刺さった珍しい伝説の剣が存在しています。

まるでアーサー王の聖剣エクスカリバーを思わせるこの剣は、12世紀から伝わっているもので、修道院が廃墟となった現在も、アクリルケースの中に入れられて保存されています。

この剣はもともと、裕福な貴族であり、勇敢な騎士でもあったガルガーノ・グイドッティ(サン・ガルガーノ)の持ち物でした。

ガルガーノは、大天使ミカエルの幻をみてキリスト教に改宗したといわれ、後にこのモンテピシエの地で落馬したときに、丸い聖堂で12使徒に囲まれたイエスと聖母マリアの幻視を見ました。

彼らはガルガーノに、「すべての物欲を捨てよ」という啓示を与えました。

しかし、ガルガーノはこれに反発し、「そんなものは岩を剣で切り裂くくらいに簡単なことだ」と答え、あてつけに自分の剣を引き抜くと、近くにあった岩に突き立てました。

すると、驚いたことに、剣はナイフで柔らかいケーキでも切るように簡単に岩に入り込むと、岩に突き刺さり、抜けなくなってしまったのです。

自分の宣言を果たせなかったガルガーノは、反発を捨て、以後神の言うことを素直に聞くようになったということです。

そして、その時の剣は今でも岩に突き刺さったまま修道院で保管されているのです。

ちなみに、ケースに入れられる前には、この剣を抜こうとする人間が多くて困りものだったということです。

ズルフィカール

引用:weziwezi.com

ズルフィカールは、イスラム教の第4代正統カリフであるアリー・イブン・アビー・ターリブが使っていた剣とされ、イスラム圏では伝説の名剣とされているものです。

ズー・アル・フィカールと呼ばれることもあります。

アリーは、イスラム教のシーア派の初代イマーム(指導者)で、イスラム教はアリーの子孫のみを正当なカリフと認めるシーア派とそれ以外のカリフも認める多数勢力のスンニ派に分かれます。

ズルフィカールの一般的なイメージとしては、イスラム圏でよく使われる半月刀の形状をしており、先端の部分が二股に分かれているのが特徴です。

イスラム圏の剣にはよく、「アリーに勝る英雄なく、ズルフィカールに勝る剣なし」と刻まれていることがあります。

ズルフィカールはその由来のために、武器や兵器の名称として使われることが多く、イラン軍の戦車にもこの名前がつけられ(一般的にはゾルファガールと表記される)、パキスタン海軍にはゾルフィカール級フリゲートが存在し、姉妹艦にはすべて刀剣の名前がつけられています。

ほかにも、ズルフィカールは以前のパキスタン大統領ズルフィカール・アリー・ブットーのように、人名として用いられることもあります。

ジュワユーズ

引用:http://app-nav.com

シャルルマーニュ王に仕えた騎士ローランのデュランダルは聖剣として有名ですが、シャルルマーニュ自身が使っていた剣もまた伝説の武器とされています。

日本ではそれほどでもありませんが、フランスではとても有名な聖剣です。

フランス語で「陽気」を意味するジュワユーズは、一説によるとデュランダルやカーテナと同じ材料から造られたといわれます。

さらに、柄の頭には聖槍が埋め込まれているともいわれます。

『ローランの歌』には、ジュワユーズに並ぶ剣は他になく、剣は日に30回もその色を変えると記されています。

イベリア半島におけるイスラム教徒との戦いでは、シャルルマーニュはジュワユーズで敵のサラセン人指揮官の首を刎ねました。

ジョワユーズは、フランスでは国王の王権を象徴する剣として、ルイ14世の肖像画をはじめとして歴代のフランス王たちの肖像画に描かれ、ナポレオンの戴冠式にも描かれています。

ジョワユーズの行方については諸説あり、現在もはっきりとはしていません。

シャルルマーニュの亡骸とともに埋葬されたという説や、歴代フランス王の埋葬地であるサン・ドニ大聖堂に保管されているというもの、ウィーンの帝国宝物殿にあるという説などが存在します。

フランスのルーブル美術館には、ナポレオンの戴冠式に用いられたジョワユーズが展示されていますが、これは本物かどうか定かではなく、フランス革命によって紛失したためナポレオンが作らせたという説もあり、美術館もこれが本物かどうかについて言及していません。

越王勾践剣

引用:http://otumamiokashi.com

越王勾践剣(えつおうこうせんけん)は、古代中国の春秋戦国時代後期にあった国である「越」の王「勾践」が8本保有していたといわれる伝説の名剣です。

越王勾践剣は、長さ55.7㎝(柄の部分8.4㎝)で、幅4.6㎝、重量875gで、剣の両面には連続した菱形のパターン模様が浮かび、ターコイズ、青水晶、ブラックダイヤモンドが象嵌されています。

柄の先端部分は11同心円によって構成されており、剣の握りの部分には絹が巻かれています。

春秋時代は、中国が統一した王朝をもたず、いくつもの国に分かれて戦乱が頻発していた時代で、越は勾践の活躍によって急速に勢力を拡大し、当時力をもっていた呉と2大勢力として覇を競っていました。

しかし、勾践の死後、越は衰退し、やがて楚の国に滅ぼされてしまいました。

勾践の剣も長い間行方知れずになっていましたが、1965年12月にそのうちの1本が湖北省江陵県(現在の荊州市荊州区川店鎮)の望山1号墓より出土しました。

剣には「越王勾践自作用剣」という刻字があり、これが本当だとすると、勾践自身が製作した剣だということになります。

越王勾践剣は2000年以上が経過したものであるにも関わらず、腐食などはほとんどみられず、現在でも美しい姿をとどめています。

X線を使った解析によると、剣は折れにくく柔軟な銅で作られていて、刃の鋭さと硬さを増すために各部に15~30%という多量の錫が含まれていることが分かりました。

さらに、表面の模様部分に多くの硫黄が含まれていて、これが銅と結合して硫化銅となり、酸化を防いで腐食を抑える役割を果たしていることも判明しています。

表面にはクロムも塗られており、かなり科学的に発達した防錆処理が施されていたことが分かっています。

越王勾践剣は、1994年に文化交流としてシンガポールに貸し出しを行った際に作業員が誤ってケースにぶつけたため、7㎜の亀裂が入るという出来事がありました。

そのため、これ以後中国政府は越王勾践剣を国外に持ち出すことを認めなくなり、2013年には正式に海外展示禁止の中国文化遺産リストに登録されてしまいました。

現在、越王勾践剣は、湖北省武漢市にある湖北省博物館に収蔵されています。

今のところ、発見されているのは1本だけですが、越王勾践剣はもともと8本あったと伝えられており、残りの7本は現在もどこかに眠っている可能性があります。

望山1号墓からは、他にも60㎝ほどの同様の剣が発見されており、現在中国国家博物館に収蔵されていますが、これが越王勾践剣かどうかは判明していません。

ほかにも、イギリスの大英博物館や東京の国立博物館にも同様の剣が展示されていて、もしかするとこれらもまだ見つかっていない越王勾践剣の1本かもしれません。

草薙剣

引用:www.atsutajingu.or.jp

草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、別名天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれ、日本神話に登場する伝説の剣です。

八咫鏡、八尺瓊勾玉とともに日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器の1つであり、現在は愛知県名古屋市にある熱田神宮の御神体となっています。

ヤマタノオロチ(八岐大蛇)と草薙剣

引用:ja.wikipedia.org

昔、あるところに8人の娘がいましたが、そのうち7人は生け贄としてヤマタノオロチに差し出されていました。

そこで、父親はもし怪物を退治してくれるなら最後に残った末娘と結婚させるという条件で、スサノオノミコトにヤマタノオロチ退治を依頼しました。

スサノオは怪物に酒を飲ませ、眠らせたところを退治することに成功しました。

すると、ヤマタノオロチの体の中から一振りの剣が出てきました。

その剣は、スサノオの姉である天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上され、天皇の地位を示す神器となりました。

これが草薙剣で、のちに皇子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征に出かけた際、敵に襲われ、敵の放った火に囲まれたとき、この剣で草を薙ぎ払って逃げ延びたといわれ、これが名前の由来となっています。

ヤマトタケルの死後、草薙剣は妻のミヤズヒメによって尾張国で祀られ、これが熱田神宮の起源になります。

草薙剣は、源平合戦のときに1185年の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇とともに海に沈んで失われたとされており、現在のものは後に伊勢神宮から献上された剣だとされています。

草薙剣は、過去に新羅の僧によって盗難にあったこともありますが、剣を乗せた船が難破し、浜に打ち上げられているのを神官が発見して熱田神宮に戻されたといわれます。

草薙剣は神器であるため、実際の姿を見ることはできず、熱田神宮では現在も公開されていませんし、これからもされることはないでしょう。

一説によると、草薙剣を見ようとした者は祟りを受けるともいわれますが、江戸時代のある刀工が草薙剣を模造する際に残した記録が存在しています。

それによると、刀身は両刃で刃渡り90㎝ほど、銀白色に輝き、鍔は鉄の一体型になっていて、柄は扁平中抜きだということで、刃に錆がなく、白いため、錫を混ぜた銅剣だと考えらます。

草薙剣には、本物から分祀された形代があります。

これ崇神天皇の時代に神器と同居するのは畏れ多いという理由から造られたもので、現在は東京都千代田区の皇居に祀られています。

妖刀村正

引用:sanadada.com

村正(千子村正)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で主に室町時代(14~16世紀)に活躍した伝説的な刀工で、その名は日本で最も有名な刀工名に数えられます。

村正の作は切味凄絶無比との誉れ高く鋭い作風で知られ、精強で知られる三河武士や徳川家康、豊臣秀吉といった有名な天下人を含めて多くの武将らに愛用されました。

村正は芸術品としての価値も高く、伊藤博文など有名人もそのコレクターでした。

その反面、村正は妖刀としても広く知られ、様々な伝説が語られてきました。

多くは江戸時代に生まれたもので、使う人間や周囲に災いをもたらすといったものや、徳川家康とその一族が村正に災いを受けたために徳川家では村正をもつことが禁じられた、といったものです。

千子村正には常軌を逸した暴力的な面があり、作り手の性質が刀にも乗り移り、使う者を狂わせ、破壊的な人間へと変えてしまうといわれます。

しかし、実際にはこうした伝説はすべて後世の創作であるとされ、徳川家康も禁じていたどころか二振りの村正を子孫へと残しており、村正は多くの武士たちに使用された刀でした。

家康の祖父が村正によって家臣に殺されたという事件があったようですが、当時、村正一派の刀はかなり普及率が高く、こうした事件でも村正が使用される例が多く、それが妖刀伝説の一因になったとも考えられます。

村正の妖刀伝説は江戸時代には、かなり有名なもので、そのうち幕府の正史にまで妖刀のことが記され、家康と戦った真田幸村や幕府転覆を計画した由比正雪も村正を使っていたとされ、村正は幕府に徳川家に仇なす人物が使う刀とされるようになっていきました。

そのため幕末期になると、村正は討幕の象徴とされ、西郷隆盛や三条実美など討幕派の武士や公家などが実際に所有していた例があります。

聖槍

引用:ja.wikipedia.org

聖槍とは、十字架に磔にされたイエス・キリストが死亡したことを確認するために、イエスに脇腹に刺されたとされる槍のことです。

この槍を使ったローマ兵の名前をとって「ロンギヌスの槍」と呼ばれることもあります。

ロンギヌスは白内障を患っていましたが、槍を刺した時に流れたイエスの血が目に滴り落ちると、視力を回復したといわれ、後に彼自身もキリスト教徒となり、「聖ロンギヌス」と呼ばれるようになります。

聖槍の存在は、キリスト受難の象徴であるとともに、イエスが一度死んだことを明確にしているといわれます。

後に、聖遺物への崇拝が高まると、聖槍はその代表的なアイテムとなり、各地でこれこそが正真正銘の聖槍だといわれるものが各地で見つかりました。

ローマ帝国にキリスト教を取り入れたコンスタンティヌス帝や西ヨーロッパの統一を果たしたカール大帝(シャルルマーニュ)も聖槍を保有していたとされ、アーサー王伝説にも登場します。

歴史上、聖槍と呼ばれるものはいくつもあり、現在でも、複数の聖槍が存在しています。

サン・ピエトロ大聖堂の聖槍

引用:mememagazine.net

イエスの処刑から600年後に発見されたもので、槍の先端部分のみとされ、宝石で飾られた十字架の中央に飾られ、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルにあるアヤソフィア大聖堂に収められました。

80年後には槍の本体も発見されて収蔵されます。

それからさらに600年後、フランス王ルイ9世が先端部のみを買い取り、パリで保管されていましたが、フランス革命により行方不明になってしまいます。

一方、本体のほうはコンスタンティノープルがイスラム勢力によって落とされた後、オスマン帝国のスルタン(皇帝)からローマ教皇に贈られました。

これが、現在ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に収められている聖槍で、公開はされておらず、残念ながらその姿を目にすることはできません。

アンティオキアの聖槍

引用:ja.wikipedia.org

イスラム勢力に奪われた聖地エルサレム奪還のために組織された第一回十字軍において、シリアのアンティオキアで十字軍が苦戦していたときのことです。

ペトロス・バルトロメオという南フランス出身の兵士が、十二使徒の一人である聖アンデレの幻視に導かれ、聖槍を発見したと言いました。

これを聞いた十字軍は熱狂し、士気は一気に高まりましたが、なかにはその真贋を疑う者もいました。

そこで、ペトロスはその神意を証明するための神明裁判を買って出て、「火による試練」を受けることになり、槍を抱いて炎の中に飛び込みました。

しかし、その結果ペトロスは大ヤケドを負い、数日後には死亡してしまいます。

やがて、十字軍内でも聖槍は偽物だったという話が広まっていきました。

現在では、ペトルスが見つけたものが本物の聖槍だったのか、聖槍はその後どこへいってしまったのか、知るすべはありません。

アルメニアの聖槍

引用:ja.wikipedia.org

この聖槍はアルメニアのゲガルド修道院で発見されたといわれ、これはもともと十二使徒のもっていたものとされています。

タダイはこの地で異教徒に殺されますが、タダイの弟子たちは秘密の洞窟のなかに隠し、聖槍はそこで200年にわたって眠り続けました。

やがて、聖槍の隠された場所にはゲガルド修道院が建てられ、ゲガルドとは槍の意味で、ここで聖槍が発見されたことにちなみます。

アルメニア教会は、槍がローマのものではないことは認めていて、イエスの時代のユダヤ人兵士に使われていたものとしています。

神聖ローマ帝国の聖槍

引用:seanmunger.com

神聖ローマ帝国で王権の象徴となるレガリアとされている帝国宝物の1つにも聖槍が伝わっています。

聖槍は、神聖ローマ帝国の初代皇帝オットー1世の時代からのものとされ、金の鞘には「神の釘、神の槍」の文字が書かれています。

金の鞘の下にはもう一層の銀の鞘があり、そこにはラテン語で、「聖モーリスの槍」と記されています。

この槍はもともと、ローマ軍の隊長だったモーリスのものとされ、コンスタンティヌス大帝やカール大帝が手にしたのもこの聖槍だといわれます。

聖槍は、神聖ローマ皇帝カール4世の子孫が金に困ったときにニュルンベルクの町議会に売り渡してしまい、長い間ニュルンベルクで保管されていました。

ナポレオンの侵攻の際にウィーンへと避難させられ、ナチスドイツによってオーストリアがドイツに併合された際に再びニュルンベルクへと戻されました。

この聖槍には「所有するものに世界を制する力を与える」という言い伝えがあり、アドルフ・ヒトラーは、このウィーンのホーフブルク宮殿でこの聖槍を手にしたときに世界征服の野望を抱いたともいわれ、聖槍をニュルンベルクに戻したのも、神聖ローマ帝国の後継者としての自らの権威を示すためだったという説もあります。

聖槍は戦後、ウィーンへと移され、現在はホーフブルク宮殿にて保管されています。

まとめ

以上、世界に実在する伝説の武器を紹介してきました。

架空の存在あると思っていた伝説の武器も、探してみると世界各地に実物だという伝承のあるものがたくさん残っていることが分かります。

これらの武器が果たして本当に伝説にあるような力をもっているのかは定かではありませんが、こうした武器の存在だけでもロマンがあります。

今後、世界のどこかからまだ見ぬ伝説の武器が発見されることもあるかもしれません。

Copyright © 2019 雑学ミステリー All Rights Reserved.